2009年10月26日 (月)

かもめこわい

風邪を引いたので会社を休んだ。
風邪なのかさぼりなのか、よくわからないけれども。

週末のことを、とりとめもなくつらつらと。

土曜日に用事があって池上に行き、帰りに三田に寄った。
連れが、「お前の店に飲みに行こう」と言い出したので。
久々に大学にも足を運んでみたのだが、校舎が消えてて驚いた。
部室も鍵がかかってて、残念だった。

一服して、件の地下のお店に行ったら、
わけのわからないスーツの若者たちに貸し切られていた。
じいじに「何だよもう、昨日来るかと思って待ってたのに」と言われ、
ばあばに「だめよ金曜はお仕事なんだからねぇ」と言われ、
ちいにいに「昨日は後輩たちがゆっくりしていったんだよ」と言われた。

後々、その「後輩たち」がゆっくりしにいった際、
「こないだnyimaがきてたよ」とばらされてしまったら恥ずかしいので、
先に自分で言っておきました。

それで仕方なく、またきますと残して、巣鴨に帰った。
そのまま三田で餃子かタイ料理という選択肢もあったが、
飲んだ後に雨の中帰るのも、ねぇ、と、巣鴨に帰った。
そして、気の進まないホルモン屋に連れて行かれた。

おいしくなかった。

翌日曜日は勝どきに行って船に乗ってきた。
勝どきは何もなく、とても寒かった。
かもめにえさなどやったけれど、
松島の遊覧船でのはしゃぎようはどうしてか顔を出さず。
というか、かもめの落し物がこわくてたまらなかった。
でも弔事を終えた気分で、さっぱり、したのかどうかはよくわからない。

寒かったので、家に帰ってせっせと鶏団子を作り、
鶏と鱈の鍋にして温まった。
やはり冬は鍋である。

昨年は小さな土鍋を鍋敷きに移して食べていたが、
今年は電気鍋を買って正解だった。
当たり前だが、最後まで温かい。
当たり前だが、ゆっくり食べられる。

と、温まったはずだったが、朝起きたら熱っぽかった。
インフルエンザだったらまずいし、と自分を甘やかし、
休んでしまった。

最近、自分を甘やかしすぎ。

『それからはスープのことばかり考えて暮らした』 吉田 篤弘

知らないふり、と、嘘、の違い。

「物語が、はじまる」 川上 弘美

一度電源を落としてしまったら、再び同じように戻ることは難しくて、
だからたったひとことを言えずにいたり、言わないように努めたり。

『夜の公園』 川上 弘美

うーん、納得しかねる。

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2009年9月13日 (日)

いいすぎ

痩せたらしい。

実家を出て以来、体重計とは疎遠になっているので、
自分がどれだけの重さなのか知らないが、
どうも最近、痩せたと言われる。

着ているものに余裕は生まれていないから、
私としては何の実感もないし、実際、痩せてもいないのだろうが、
どうも最近、痩せたと言われる。

私は体重という正確な数値よりも、
見た目という曖昧な感覚を重要視するので、
こうした指摘は喜んでしかるべきはずである。

が、どうも気に喰わない。

痩せたと言ってくる中年男性の例を挙げる。

男性:失礼ですが、ダイエットをしていらっしゃいますか。
私:いえ、特に何もしていませんが。
男性:そんなことおっしゃって、絶対お痩せになりましたよ。
私:そうですか、うれしいな、夏だからかな。
男性:またまた、ダイエットの成果ですよ。
私:そんなに痩せましたかね。
男性:さっきも他の方と話していたんですよ、痩せましたよねって。

気に喰わない。

失礼ですが、と頭にもってくるくらいだから、
ダイエット中の人がそれを指摘されるのを嫌がることはわかっているらしい。
痩せたことを、ではなく、ダイエットをしていることを、である。
にもかかわらず、重ねて言及してくれるご親切。
そして、それを他の人と噂していたことを報告してくれるご親切。

一度ならばさして気にもしないのだが、
これが度々あれば、私でなくともいらつくのではなかろうか。

また別の例。
私は最近、あまりうれしくない出来事を経験したのだが、
それを知る人が、そのつらさから痩せたのだと思い込んでいる。
つまり、ダイエットの喜ばしい成果、ではなく、
心労の哀れな結果、と思い込んでいる。

それならばなおのこと、そっとしておいて欲しいものだが、
気の毒そうに話に挙げる料簡は一体どんなものなのか。

まぁ、言うほど痩せてもいません。
毎日、苦しい苦しいと後悔するほどに食べています。

痩せていないじゃん、と言われるのが怖くて、
また人に会いづらくなってしまった。

『此処彼処』 川上 弘美

人生でいつがいちばんよい時期なのか、私はよくそう思ってしまう。

ひとまずシルバーウィークを糧にあと4日間を過ごそう。

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2009年9月 1日 (火)

インフルエンザではなかった

元気です、などと書いた途端、熱を出した。

月曜朝から微熱と咳と咽頭痛。
もしかインフルエンザかしら、とも思ったが、
直属の上司が休暇を取っていたのでひとまず出社してみた。
みるみる熱が上がっていって、昼過ぎには顔が真っ赤になってしまった。

医者に行ったら、問診とごく簡単な触診程度で、
インフルエンザじゃなさそうだね、よかったね、と言われる。
私にはよくわからないが、こんなにも簡単にわかるものなのか。

少し早めに帰って、あたたかいおそばを食べて寝ていたら、
つるのやで飲んでいる夢を見た。
他にも色んな夢を見たが、他は嫌な夢ばかりであった。
上司の年賀状を印刷する夢まであって、我ながら何を考えているのかよくわからない。

目が覚めても、下がったとは言え、まだ熱が残っていた。
咳はひどいし、全身痛い、何より今日は上司が出社する。
そういうわけで、休暇を取った。

5日間の夏季休暇のうち、2日は風邪休暇というのも哀しい話である。

諸症状は依然続くものの、眠気はない。
仕方がないので、おふとんを干して、掃除に洗濯。
何のために休んだのかよくわからない。
挙句、だるいだるいと思いつつ、久しぶりに開いたPCで、人の近況を窺う。

いかに自分がネット上のコミュニティから距離を置いていたかがよくわかった。

一度面倒だと思うと、人の日記やらブログやらを追うのは面倒である。
会社の同期に言われたことがあるが、私は人にさほど興味がないらしく、
いや、ないわけではないと思うのだがとにかく端から見ればそうらしく、
だから尚のこと面倒に思えてくるのだろう。

別に人に興味がないわけではない。
その人が何を思ったか、何を考えているか、
といったことは見聞きしていて面白いと思うが、
日々の出来事そのものには中々興味が沸かない、というだけのことであるが。

だから恐らく、風邪を引きました、なんていうこの日記は、
読んでも何も面白くないだろうと思う。

『つむじ風食堂の夜』 吉田 篤弘
『空ばかり見ていた』 吉田 篤弘

つむじ風~が気に入ったので、空ばかり~も読んでみたが、
後者はどうもしっくり来なかった。

つむじ風~に出てくる、とうがらしにまつわる伝説ばかり集めた本、
というものが気になってたまらない。
ものすごく下らなくて笑えそうで。
ありもしないものであっても、作中作というのは気になるもので、
そういえば青木淳悟『四十日と四十夜のメルヘン』中の仮想作品も気になる。
裸足の僧侶たち、だっけか。

そういえばついでに、そういえば私は昔から、
何か本を読み終わって、さて次は何を読んでみようかと思ったとき、
その作品の中で名前の挙がっていたものだとか、
巻末の既刊本紹介から次を探すことが多いのであって、
何も仮想作品に限ったことではなく、
1冊の本の中に作為的に仕舞われた作品に惹かれやすいのかもしれない。

たった今読んでいる、あるいは読み終えた作品との、
何かしらのつながりを期待し、安心できると踏んでいるのだと思う。

人間関係もきっと、そういうことだろうと思う。

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2009年5月11日 (月)

海の中には母がいる

母の日。

今週も実家に帰っていたので、お花でも買いに行こうかと思っていた。
私の母は、母の日定番の赤いカーネーションがあまりすきではないので、
淡い色のスプレーバラでも数本買ってこようかと思っていた。

お昼頃でいいかな、と、母のマッサージなどをしてやりつつだらだら過ごしていたら、
珍しくインターフォンが鳴った。

花キューピッド。

義姉からのフラワーバスケットであった。
淡いピンクの小ぶりのカーネーションが詰まった、フラワーバスケットであった。

淡い色のスプレーバラでも、との心がくじけた。

義姉はしっかりした方で、ちゃんとこういう気配りのできる方で、
引き換え私は、実母へのプレゼントすらものぐさに後回しにしており、
それどころか結局買い求めることを断念したのであって、
こういう人といれば兄も安泰だろうと、何だかもう、うらやましくもなったのであった。

まぁ来週には母の誕生日なので、改めて何か贈ればよいかな。

でも父の日には一切何もしない私。

『インド人の頭ん中』 冬野 花

日本人は人を待たせることができない、という件に思わず頷くが、
しかしよくよく周りを見渡せば、私を待たせる人間は多いような気もする。
そして待つことはあまり苦にならない私。

といっても、流石に音信不通のまま、
雪の降る中、1時間も2時間も待たされたときは、流石に帰りたかったなぁ。

胃が痛い。

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2009年4月16日 (木)

悪いことも覚え始める

ひとりの不幸から色々な問題がのしかかってきたので、
最近はどうも面白くないことだらけなのだが、
まぁ今後の楽しみ、つまり近々の旅行予定を挙げることで慰めとしたい。

とりあえず、GWは青森へ。

製造業なので、1日はメーデーでお休み。
30日夜から出れば、そうそう混まずに連休を楽しめそうな予感。
2日は間違いなく出社した方がよいのだが、
この度の不幸を理由に休んでしまおうと考えている、小ずるい2年目。

問題は、そうした嘘の理由に苛まされることと、ETCがないことくらいかな。

あおもり犬を見たいので、県立美術館に行きたいのだが、
同行する人がまず美術館を厭いそうなので、行かないかもしれない。
奥入瀬にも行きたくて、この際、スニーカー購入に踏み切るのもよいかと思う。

ただ、今回は知人の親戚宅にお邪魔するのだが、
どうも毎晩毎晩相当な量を飲食する羽目になるらしく、
二日酔い知らずの私はともかく、連れが観光に付き合ってくれるかどうか、
甚だ疑問である。

それでも、何としても恐山には行って来ようと思います。

6月は、誕生日休暇、ってただの年休だが、
とにかくちょうど誕生日前後は月刊の仕事がひと段落するところなので、
木・金と休みを取って、3泊4日で台湾へ。

そもそもは韓国に行くはずだったのだが、台湾へ。
ということで、お粥を勧めてくれたのに、ごめんねゆきん。

1年半くらい前か、ゼミのみんなで行ったことが懐かしい。

そのときは行かれなかった九份に行きたい。
レトロな階段街をぶらつきたい。
夕方から行って、食べ歩いたり軽く一杯引っ掛けたりして、
裸電球の下、夜まで過ごしたい。

それからそれから、臭い豆腐食べて、ドライマンゴと梅を買い込んで、
へびでも食べて、たっぷり夜遊びしてこよう。

久々に、真っ赤な小さな、
おばあちゃんの買い物カートみたいなキャリーケースを引っ張り出して、
旅行らしい旅行をするのもいいかなと思う。

と、そんな楽しみがどうか実現されるよう、
これ以上何も起こらないことを切に願って寝ることにする。

『味と映画の歳時記』 池波 正太郎

庶民的なおいしいものを語ってくれるエッセイは、すき。
しかし、マギーのブイヨンを入れてって、本当に庶民的だな。

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2009年3月22日 (日)

皮算用

引越しを考えている。

昨年、家を出たのだが、親戚の家に間借りするだけだったので、
家電・家具の類は一切買わずに済んでしまった。
そのときは、何とまぁ楽なことかと思ったが、
おかげで、いざ改めて引っ越そうとなると、一から揃えなければならない。
引越しなんてただでさえお金がかかるというのに、
何とまぁ手痛いことかと思ったが、
よくよく考えてみると、さして買わずに済む気がしている。

まずは冷蔵庫。

数ヶ月前のこと、近所に実家を持つ従兄弟が、転職に伴い実家に出戻った。
この従兄弟は、私の現在の大家ともいえる叔父のことを、
どうも廃品回収業者とでも思っているきらいがあり、
このときも慣れない軽トラで、すてきなお宝を齎してくれたのだった。
それが即ち冷蔵庫。

因みに、それまで使っていた、というか現在も併用している冷蔵庫も、
この従兄弟が就職に伴い出戻った際に持ち込んだものである。

で、私が引っ越す際には、このどちらかをもらっていけばよいので、
まぁあわよくば新しく持ち込まれた大きい方をいただきたいが、
いずれにせよ直ちに購入する必要はない。

台所周りでは、他に、電子レンジ、炊飯器。

と思ったのだが、この一年、どちらもほとんど使った覚えがない。
炊飯器に至っては、この一年、一度もお米を炊いたことがない。
断っておくが、自炊はしている。
しているが、ただ単に、白米を食べない、というだけのことである。

ポットも使っていないし、コーヒーも手ずからドリップしているし。
トースターはグリルで代用しているが、
そもそもトーストにしなくとも構わない質なので、これも必要度は低い。
まぁでも、コーヒーメーカーくらいは欲しいかな。

鍋釜、その他調理道具くらいは仕方ない。

それからテレビ。

これはやはり、社会人として、というか社会の一員として、
最低限の、しかし多岐に渡る情報を選り好みせずに受け取るために、
あった方がよいとは思う。

だがしかし、現在、我が家には都合4台のテレビがありながら、
私は朝の天気予報くらいしか見ていない。
天気予報を見るために、朝のニュースはつけているが、
出勤してすぐかあるいはお昼休みに見るmsnなりyahooなりの内容は、
それに勝るとも劣っていないように思われる。

ということで、まぁ、すぐにはなくとも困るまい。

あるいは、私が引っ越したら飲んだ帰りに押しかける、
とよく言っている数人のテレビっ子たちに、引っ越し祝いとしてねだる手もある。

さらにはベッド。

寝に帰るような生活の私にとって、これは必需品である。
畳だからと断念したが、現在の部屋に引っ越す際にもあれやこれやと考えた。
はずなのだが、今になってみると、布団で全く不自由がない。
実家に帰ったときでさえ、それまで使っていたベッドは奪われており、
カーペットに、マットレスも敷かず、直に布団を敷いて寝ている。

現在使っている布団は家から持ってきたものではなく、
この家にきて支給されたものではあるが、
そこはまぁいわゆる「おばあちゃんち」なので、布団はまだ何組かあるわけで、
持っていっても何ら支障はないだろうから、これも買う必要はない。

買うにしても、骨組みの上にそのまま布団をのせるだけのものか、
あるいはいっそ、ソファーベッドで、いいや。

しかしどうにもならないのが洗濯機。

こればかりは買うしかない。
タイミングよく誰かから引き取れるなどという天恵でもない限り、
こればかりは買うしかない。
というか、これはむしろ、新しいのを買いたいから、構わない。

掃除機もアイロンも掃除機もあるし、
おこたはないがテーブルはあるし、まぁそんなものか。
その他細々したものくらいは諦めよう。
カーテンと本棚くらいは新調したいし、これもよしとする。

と、まぁ金銭的にはさほどの無理でもないかな、と考えているのだが、
何せ私のことである、ものぐさな私のことである。
そもそも家を探すのが面倒、引越しそのものが面倒、ということになって、
ずるずると夏くらいまでは今の家に居座っている気がしてならない。

何だかんだ言ったって、お金がかかることに変わりはないし、
どうしたって面倒だし、住むところがないわけではないし、
まぁ気長に考えることにしよう。

『箸の上げ下ろし』 酒井 順子

そう、そう、そうなの、と思わず声をあげて首肯したくなったところを、引用。

大人というのは、食の好みにしても食習慣にしても、
自分なりの確固としたものを身につけています。
ですから大人同士のデートというのは、
「長年培われた食習慣同士が対峙する」という場面でもある。
(中略)
その人が三十余年もの間、
「ズズズズズー!」と音をさせてパスタをすすり続けてきたのであれば、
その音を否定するということは、
その人の人生をも否定することになりかねないのではないか、
と思ってしまうのです。
大人のデートは、かくして緊張に包まれることになるのでした。

別にデートに限ったことではないが、緊張、というかむずがゆい。
細かいことは言いたくないし、というかどうでもいいし、
私自身、さしてお上品にものを食べるわけではないが、
どうも食事の作法が気になってしまう質だと思う。

恐らくそれは、食べる飲む、ということがすきであり、
また、人と会うとなると飲食以外の選択肢を与えてあげられないからなのだが。

家族だとか、昔からの友人だとか、よほどの相手でなければ、
この年になると、人の食習慣に口を出し難い。
それがいかに私を不快にさせるものであろうと。
恐らくそれは、相手にとっても同じで、
だからこそ、恥ずかしくない程度の作法は、身に付けていたいと思う。

まぁ、それ以前に、食べるスピードを上げることが、
相手を不快にさせないという点では先決問題かとも思われるが。

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2009年3月15日 (日)

春の嵐

福岡のおじさんが来たので、親類そろってどんちゃん騒ぎをしました。
という感じかな。

ヨシヲ氏が東京に来てくれたので、みんなでつるのやで飲んだ昨晩。
どうしてか、妙に一年という歳月の経過を感じさせられた一晩であった。

卒業を控えた後輩というほど遠くない仲の後輩たちと会ったせいか、
ちょうど一年前の、本当に卒業・就職できているのかというわかりやすい不安と、
よくわからないけれどやたらこみあげてくる淋しさと、
それらを紛らすためにお金もないのに遊んでばかりいた放蕩の日々を思い出す。
そんな日々も、もう一年も前のこと。

しかしそんな一年前と変わらず、遊んでくれる友人たちが、相変わらずありがたい。
そしてなぜかやたらと私をかわいがってくれる、つるのやの人々もありがたい。

どうにか一年やってこられて、よかったな、と、
全然関係ないことをひとりしみじみ考えていた昨晩であった。
ヨシヲくんのくれためんたいこせんべいも、mameちゃんがくれたお菓子も、
T氏がくれたお酒も、つるのやのごはんも、みんなおいしかったし、
よい一日であった。

しかしやっぱり春は、よくわからない淋しさに襲われるから、苦手だ。

『都と京』 酒井 順子

どうもしっくりこない、言っていることも項ごとに矛盾しているような。
視点も平等じゃない気がしてならないし。
東京人の京都信仰、みたいなものが苦手だから嫌だっただけかな。
大学時代、勉強していた、というか考えていたことが、
いちいち動機付けに語られていたから、今更、という気がしてしまっただけかな。

そんなわけで、ふたつの都市の背景に関してはさして新たな発見もなかったが、
とは言え、京都についての豆知識のようなものは得られたし、まぁよしとする。

贈答文化の違いの項があったが、
たまたまホワイトデーというイベントがあっただけに、それなりに考えさせられた。
ふたつの都市における贈答はまぁ本を読めばいいとして、
過ぎ去りしバレンタインデー。
色々思うことはあるのだが、
会社という場でのこうしたイベントを経験してみていっそう感じたこと。

職場にもよるのだろうが、
私の職場では、強制イベントというほどの強さはない。
まぁ女性も少ないし、これが強制となっては、いかほどの負担を強いることか。
それでも私がイベントに乗ったのは、単純に相手への感謝のつもりである。

友人や恋人、家族ならいざ知らず、職場の人に対して、
日々の感謝の念を、いちいち表す機会というのはそうそうない。
たとえお世話になっていても、
もちろんその都度お礼は言葉にするし、
他愛もないお菓子やお土産のやりとりはあっても、
何もない日に突然何かをプレゼントできる間柄にはないのである。

そうなると、バレンタインデーというのは、実にありがたい日である。

何も男女を問う必要もない。
この機に乗じて、ちょっといいお菓子でもお渡ししておけば、
感情を伝えることができるし、何よりそれで私自身がすっきりできる。
借りを借りのままにしておくのは、すっきりできない。
しかもバレンタインデーの方が順番として先にくるので、
下っ端の身としては、先手を打てるので、これまた気持ちの負担が軽い。

で、ホワイトデーというのも、やはり基本は同じだと思う。
バレンタインデーにいただいたから、という口実があるのだから、
なおのこと何かをしやすい。
別に何ももらってなくとも、バレンタインデー同様の感覚で渡すこともできる。

しかしホワイトデーがバレンタインに比べて厄介なのは、
もらったからにはお返しをしなければ、という義務感が生じるところにある。
その点、男性は少し気の毒だと思う。
まぁ、著者のいう東京的贈答に則ってしまえば、
こんな義務感を覚える必要もないのだろうけれど。

まぁそう思う私としては、
こんなのは義務だといって、バレンタインデーを前にぶつくさ言う人などを見ると、
それを義務たらしめているのは、結局のところ彼女自身にほかならないと思うし、
それに気付かず文句を言うのもどうかと思ってしまう。

まぁ、恩恵を受けたらきっちり返す、
という感覚を万人がもっているわけではないだろうし、
そもそも恩恵すら感じられない場もあるだろうから、一概には言えないが、
いつの間にかそういう感覚を身に付けていた私としては、
なぜそんなに文句たらたらなのか、不思議でならない。

いっそ何もしなくたって、それならそれで、よほど潔くていいのに。

出費が手痛いというのは、確かだけれど、
まぁそんなものは、見栄を張らなければいいだけの話で。
お歳暮やらお中元やらと違って、もっと軽いイベントなんだから。

あぁでも、あの混雑の中のチョコ選びは確かにつらいな。

どちらが正しいとか間違っているとか、そういうことではなくて、
ただ、不満なんて感じなくて済むなら感じたくないから、
まぁ私のスタンスも悪くないのかな、とは思っている。

こうしてみると、東京人の端くれである私だが、
贈答に対する感覚は、どちらかという著者のいう京都人に近い私であった。

そういう項目が多かったから、しっくりこなかったのかな。

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2009年3月 8日 (日)

朝がまたくる

何となく、品があるよね。

というのが、最近言われてうれしかった一言。
いわゆる行儀のよさを問うているのではないことは、言わずもがな。
しかし行儀のよくない挙動・言動があってもなお、品がある人は品がある。

まぁ、私の場合、単に動作が緩慢なだけな気もするが。

また別の話。
先日、人からブックカバーをいただいた。

私はどうも、ブックカバーをいただく機会が多い気がする。
特に男性から。

私が男性に何かプレゼントでも、と思うときにやたら頭を悩ませると同様に、
恐らく、男性もまた、私に何かやろうと思ってくれたときに、頭を悩ませるのだろう。
一般にプレゼントを渡すことを好むとされる女性の私が悩むのだから、
男性ならば、悩みも一入、考えるのも面倒なのではなかろうか。

人に何かを贈ろうと思ったら、まぁまるっきり自分の趣味を押し付けることもあるが、
しかし往々にして、相手の趣味趣向をまず考える。
あの人はあれがすきだから、これをあげよう、こういうものがすきかな、と。

で、恐らく、私の趣味趣向は、と考えた挙句のブックカバーなのだと思う。

人から物をいただいたり、すすめられたりすると、
人が私をどう見ているかが多少なりとも窺えて面白いが、
少なくない人が同じものを下さることは、何かもう、笑える面白さである。

などと書いてしまうと、まるでブックカバーはいらないとでも言いたいかのようだが、
決してそうではなく、実際にいただいたものを重宝している身としては、
今後も私に対する認識が変わらなければよいと、思う次第であります。

一冊ごとに、違うブックカバーを巻いてやれるのは、楽しい。

『もの思う葦』 太宰 治

先日、友人との話の中で、おとこのひとはかわいい、総じてかわいい、
と言ったところ、いまいちわかってもらえなかったが、
しかしやっぱり、おとこのひとというのは、かわいいと思う。

本を読まないということは、そのひとが孤独でないという証拠である。

まったく、然り。

『なんとなくな日々』 川上 弘美

私はこんなにすてきな人では決してないけれども、
この人のエッセイにはいつも親近感と安心を覚える。
そうそう、そうなの、よくぞ言葉にしてくれました、と毎度うなずく。

そういう感動に興奮している私は、この人とは程遠いわけだが。

『しかたのない水』 井上 荒野

あまり好みではないのだけれど、どうにも止まらず、
仕事をサボタージュして、ではなく、休憩して、
つい喫茶店に入ってしまった。

『百鬼園随筆』 内田 百閒

余情がある、というのは、こういうのを言うんだろうな。
別に湿った意味ではなく。
しかし借金もここまで当然のようになされると、
もう何も文句は言うまいね。

「女の決闘」 太宰 治

事実、DAZAIの補筆が鬱陶しくて敵わない。

『おんなのるつぼ』 群 ようこ

失敗した、不愉快だ。
私はおばちゃんだから、まぁ若い人のすることにとやかく言いませんけれどね、
という前置きがありながら、とやかく言うくらいなら、いっそ前置きはいらないのに。

まとまった時間がとりにくいと、つい短編やらエッセイやらに手が伸びる。

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2009年1月 4日 (日)

年女

新春。

新年というのは、何となく気分が改まるものだと思うが、
まぁ中々そうもいかないもので。
新年早々、どうもうだつがあがらずあぁあぁうぅうぅ言っていた。

一例を記すなら、大体以下のように。

正月早々、知人から誘いのメールが入るが、実家にいる私には到底付き合えない。
残念ではあったが、家族のせいなどにしつつ、迂遠な断りのメールを送る。
が、送った後にはたと気付く。
私はごめんなさいの一言も添えずに断ってしまった、と。
ここでまず、あわあわあわ。

しかし再び相手から、新たな提案が送られてくる、が、やはり到底付き合えない。
こんなに誘ってくれているのに、付き合えない。
ここでもう一度、あわあわあわ。
丁重に、今度はちゃんとごめんなさいと、再度断りのメールを送る。
中々返信が来なくて、あわあわあわ。

しばらくの後、一言、しかしやたら元気な返信がきて、何となく不安になる。
だからメールは嫌なのだ。
やはり電話でちゃんと謝ろうか、と思うが、時は既に夜中。
先方もご家族といるというのに、その場に電話をするのも失礼か、と、あわあわあわ。

と、考えているうちに、とても電話をできる時間ではなくなり、
とりあえず床に就くが、どうも気になって仕方がない。
ので、朝起きて、やはりここは私自身のために電話をしようとしつこくも思う。
が、しかし、午前中では寝ているだろうか、と、あわあわあわ。

下手に考えすぎてしまったがために、いつまでも引きずり、
そもそもは一体何の話であったかというくらいに引きずり、
ただただすっきりしたいと思って、夕方に意を決して電話をする。
が、案の定、出ない、で、あわあわあわ。

暴飲暴食も手伝って、胃の痛い二晩を過ごしたその後、
折りよく、全く別件で件の知人から電話が入る。
もらい電話にかかわらず、相手が何を言うよりも先に、とにかく謝る。

相手、爆笑。

こうしてやっと、訳のわからない瑣末な悩みを解消するにいたったのであった。
なお、彼にしても、その後この話をしたつぁん並びF島にしても、
考えすぎでしょう、悩む訳がわからない、と言って笑ってくれたのであるが、
そう言ってくれる彼らが私はとてもとてもありがたく、すきなのであった。

以上が一例。

かようにうぅあぁと頭を痛めていたところ、
「気分転換に、休みでも取ってひとりで温泉でも行った方がいいよ」
と、兄から言われる。

優しい言葉ではあるが、ついついほろりときたが、しかし、
年明け早々の言葉でもなかろう。

まぁそんな正月休みであったが、
今年は既に、宮城・岩手・青森の東北三県行きの予定もあるので、
楽しみ楽しみ。
福島にも、行きたいなぁ。
…北ばかりではあるが。

鬱屈していたかと思えば、今日は今日で豪遊して満足しているし、
まぁ今年も変わらずへらへらとやっていけるのではなかろうかと思っている。
というか、やっていけないなんていうことは、
人生においてそうそうないことくらい、知っているつもりである。

とは言えひどい寝不足で、明日からちゃんと会社に行ける自信は、露ほどのもの。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

『ポーの話』 いしい しんじ

不具、というか社会から外れた人、というか、
そこに目を向けるのは構わないのだが、あまりにそればかりだと、どうもなぁ。

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2008年10月26日 (日)

伊達な旅

携帯を家に置き去りにしたまま、仙台に行って参りました。

どうせメールも電話も来ないだろうと高を括っていたが、
意外なことに、こんなときに限って、方々から連絡が入っていた。
申し訳ありませんでした。

今週は、週明け、というか先週末から体調を崩し、
週半ばにして起きた事件のために不眠に陥り、
と言いつつ人との電話の最中に眠りに落ちたものだが、
とにかくそんなこんなで、本当に行けるものかと不安もあったのだが、
まぁ行ってしまえば行けるものである。

兄と、姉になる人と、3人で松島に行ってきた。
…松島、というより、牡蠣食べ放題と、かもめとの戯れ。

秋になったら牡蠣の食べ放題に行こう、と兄が誘ってくれたのは、夏の終わり。
何度痛い目にあっても牡蠣が愛しい私は、
早く行きたい早く行きたいとうずうずしていてのだが、
折りよく、人に会うという別の目的も重なって、芽出度くも実現の運びとなった。

夏の終わりに誘われたときから、ひどく汚いところだとは聞いていた。
と聞いていても、別段問題は感じていなかった。
が、ここ数日、交わした兄とのメールで、少し不安を覚える。
汚いところだし、汁が飛び散るから、ジャージとは言わないまでも、
汚い格好で着なさい、としきりに兄が言うのである。

汁、て何だそれ。

汚い格好、と言われても、荷物は増やしたくないから、
会社帰りそのまま、着の身着のままで過ごしたい。
大体、初対面の人に会うのに、観光もするのに、ひどい格好でいたくはない。
結局、寝巻き代わりの汚いパーカを1枚持って、
食べるときだけ羽織ることにした。
にしたって、どれほどのところなのかとの不安は消えない。

車を降りたら、漂ってきたのは、牡蠣、というか強い磯の香り。
眼前には、2つのプレハブ、というか掘建て小屋。
いかにも海の男、海の女、という体の、ゴム長をゴムエプロンのじじばば。
リアカーに、ごみのように盛られた、殻付きの牡蠣。
そしてその牡蠣をスコップで盛って小屋の中に運び込む兄ちゃん。
入れ替わりに、牡蠣殻でいっぱいの一斗缶を引っ提げて出てくる兄ちゃん。

ふむ、確かに、汚い。

しかし今更そういう光景に退く私でも、彼でも彼女でもない。
随分と人が待っていたが、案外待たされることもなく、10分かそこらで席につく。
7、8人でひとつのテーブル、というかどでかい鉄板。
ちょうどお好み焼き屋さんのテーブルを大きくして、鉄板面積を広くした感じ。
焼肉屋さんみたく、紙エプロンをつけて、
スカートの私には膝にかけるタオルも支給され、
左手に軍手、右手にナイフとお箸を装備。

で、スコップで大量の牡蠣が鉄板上に投入される。
最初はこれまたどでかい蓋をして、殻のまま、蒸し焼き。
すると、確かに、汁が出てくる。
蓋の隙間から、飛び散る、熱い。
おばちゃんが、汚いタオルでテーブルや鉄板を拭いてくれるが、
もはや汚いとか、どうでもいい。

いざ、実食。

文句なく、美味しい。
水揚げされたそのままだから、潮が効いていて、レモンもいらない。
小さいのも大きいのもあったけれど、どれも身が締まっていて、濃厚。
隣に座る兄は、女性2人の殻を割りつつも、
ものすごい勢いで食べていたが、それを恥と思う感覚も飛ぶ空気だった。
少なくなってくると、またしてもスコップで大量に鉄板上に盛られて、
最初しか蓋はしないから、半生のとろとろ状態も堪能。

牡蠣だけでお腹が膨れるものだろうかと思っていたが、膨れた。
ものすごい満腹だった。
一体いくつ食べたのかわからないが、とりあえず1年分は食べたなと思う。
今冬も、食べますけれども。

兄は非常に満足したらしく、食後の一服をくゆらせながら、
「今度、友達でも連れてきなよ、そんでまた牡蠣食べ放題行こう」
と、既に次回の計画まで立てていた。
誰か大量の牡蠣を食べたい人がいれば、言ってください。
でも本当に汚いよ。

さて、満腹になったところで、松島観光。

松島と言えば、日本三景のひとつ。
浮かぶ島々の間を巡る遊覧船で、景勝を堪能しよう、と船に乗る。
が、景色を楽しんだのはほんの数分。
デッキに出た3人が夢中になったのは、かもめ。

船室を出ると、かっぱえびせんが売られていた。
しかしそこには、「かっぱえびせん」とは書かれていない。
「かもめのえさ」と書かれている。
見れば遊覧船の周りには、ハングリー精神に溢れたかもめたちが群がっている。

で、きゃぁきゃぁはしゃぎながら、いい年した男女3人、
えさをやるのに夢中になる。
小心者の兄は、本気でぎゃぁとかうわぁとか言いながら、怯えており、
私がえびせんを手に持ったまま、かもめを待つのに対し、
彼は持っていられず、目の合ったかもめに向かって、えびせんを投げていた。

そんなこんなで松島を後にして、飲みに繰り出すことに。
兄の当初の計画は、ホルモン焼きで、
朝、駅へとぶらぶら歩く最中にそれを言われた焼肉嫌いの私は文句を言ったが、
しかし父が置いていったボトルがあるから、と言われ、
それなら別にいいかと承諾した。

しかし松島からの帰りの車内。
何のはずみか忘れたが、なぜか私は、焼肉嫌いであることを2人に告げる。
驚く2人。

いや、ちょっと待て、兄が驚くのはおかしい。
23年間、兄妹をやっているのに、なぜ今更。
彼が実家にいたときから、彼が焼肉に行きたいと言う度に、
最終的には折れることが多かったものの、毎度毎度文句を垂れてきた。
先日、彼が東京に来たときも、結局焼肉だったけれども、
やはり嫌だ嫌だとごねたはずだ。

で、それが、今更になって、え、お前、焼肉嫌いなの、初耳だよ、と。
人の話を聞かないにも程がある。

私のわがままもあり、また牡蠣をあれほど食べた後というのもあり、
店を変えて客人たる私をもてなそうと、2人があぁだこうだと悩み始める。
本当に、なぜ焼肉が苦手だなどと、うっかり言ってしまったのか不思議で、
ひどく申し訳なく思うが、しかし悩む彼らがどうも面白い。

どうも彼らは、焼肉屋しか店を知らないらしい。
だって、普段食べに行くのって、焼肉か、寿司かどちらかしかない、と言う。
しかし牡蠣の後では寿司でもない。

「じゃぁお前何がすきなんだよ、え、野菜って、野菜居酒屋なんてあるかな」
「もう何年も住んでるのに、焼肉屋しか知らないなんて、反省」
「しかも本当に肉しかない焼肉屋しか知らないなんて、反省」
「中華かな、あそこの店なら美味しいし、ちょっとお洒落」
「でもチェーン店だし、せっかく仙台まで来てチェーンはないよ」
「いや、全国チェーンじゃないよ、てか仙台でしか見たことないよ」
「あ、ちゃんこにしたらいいんじゃない、野菜だし、若できたよ」
「若こそチェーン店だよ」
「nyimaちゃん、中華とちゃんこどっちがいい」
「お前のすきな方にしよう、え、ちゃんこなの、うーん、微妙」
「何それ、今のnyimaちゃんに聞く意味あったの」
「まぁそうなんだけど、一応、まぁそんなわけで、中華で」

車を置いて、新居候補を見て、東北大の古い広いキャンパスを抜けて、
ちょっとおされな中華屋さんで、ご飯とお酒にありついた。
時間も早かったから、その後はチェーンの居酒屋に移動して、
3人して、ビールからワインから紹興酒から焼酎から日本酒まで、
ぱかぱか飲んでしまったのだった。

本当は、仙台に行くのに、ものづごく緊張していて、
この1週間は、何を話せばいいことやらと困っていて、
何人かの人に、どうしようどうしようと言って、
酒飲めば大丈夫だよお前は、と言われて、
そうなるとお酒を嗜まない人、あまり飲まない人だったらどうしよう、と思って、
まぁそんなお酒以外のところでも、どうしようどうしようと思っていたけれど、
お酒も飲むし、何よりやさしい楽しい方だったし、よかった。
bonobosすきだし、よかった。

とにかく、よい週末を過ごせた。

次の遠出は、岩手になりそかな。

『桃』 久世 光彦

芥川が、いいですね。
血盟団とか尼港事件とか、歴史的事件がうまく織り込まれているのも楽しかった。

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2008年9月28日 (日)

ナマケモノの私

今週は、何だかまぁ、有り体に言えば忙しかった。
いや、忙しいとも言わないか。
ただ、何だか、時間がなかった。

怠け者である。

やるべきことを、これでもかこれでもかと後回しにする。
忘れていたふりをするけれど、本当は忘れてなんかいなくて、
ちくちく心を痛ませる。
なのに、やらない。

できないほど忙しいわけではない。
たとえばそれは、1本電話を入れるだけ、とか、1階2階をもう1往復するだけ、とか、
そんなことであることも多い。
なのに、やらない。
やってしまえばちくちく心を突く不快さを取り払えるのに、やらない。

そういう怠け者なのに、この上更に、
もっと怠け者になりたいと、日々思う。

というか、見るからに怠けているような人に、なりたい。
というか、つまりは、
やるべきことを見極めて、最小の労力で物事をうまくこなせている人に、なりたい。
そういう人は、きっと怠け物に見える。

忙しそうな人には、なりたくないなぁ。

必死なことは、全く悪いことではないけれど、
そうありたくはない、見栄っ張りなのである。

『ゆっくりさよならをとなえる』 川上 弘美

以前も書いた気がするが、小説書きのエッセイを読むには、勇気がいる。
特にすきな作家の場合は、勇気がいる。

エッセイを読んで、あ、すきじゃないな、こういうの、と思ってしまうと、
どんな気に入った小説でも、ついその背景を思ってしまって、
素直に受け取れなくなる、くらいの散漫な気持ちでしか本を読めない身としては、
作家その人が直截に表れやすいエッセイというものは、勇気がいるのである。

それで私は、気になりつつも、本書を手に取ることをずっとためらっていた。
でも、これは、よかったなぁ。
多分、何度も読み返して、ほっとするだろうなぁ、と、そう思った。

似通った心性に触れたとき、気持ち悪さを感じることも往々にあるけれども、
しかし私はやはり、ほっとする。
肯定はときに苦しいものだが、やはり、ほっとするものである。

あ、と思うところとか、あっ、ではなく、あ、ね、
うん、そう、と思うところとか、たくさんあったし、
ほらね、と、おこがましくも人に言って回りたい内容もたくさんあったけれども、
まぁ書かないでおこう。

とりあえず、色んな本のことがちょこちょこ出てきて、
本を読みたいなぁ、と思いました。

そういえば、ここ最近は映画を観ていない。
あぁやっぱり、私ってそんなに映画すきなわけじゃなかったのね。
映画を観るのは体力がいるのだ、本ほど散漫な気持ちで接せられないのだ。

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2008年9月 5日 (金)

活かして用いる

昨夕突然、明日休んで夏休みを消化してくれと言われる。

どうせ休むなら涼しい日がよいのだが、そう計れるものでもないし、
金曜日だし、土曜日キャンプだし、ちょうど院展のチケットあるし、
来週は確実に休めないし、そしたら夏休み期間を逃してしまうし、ということで、
急遽休みをとることにした。

勘違いしている友人知人が多い気がするが、私はさして忙しくない。
確かに拘束時間は長いかもしれないが、その割に我ながら元気なのは、
つまり忙しくないからだ、と思う。

なので休日の度にやたら元気に遊びまわっている私がいる。
休日なのに、平日時間に目が覚めてしまうことに敗北感を覚える一方、
昼過ぎまで寝ているなんて、もったいなくてまさかできない貧乏性。

休むと決めた途端、さて何をしようか、
平日をどう有効利用しようかとあれこれ考えをめぐらす。
院展はマストとして、耳鼻科、銀行、平日ランチ、
いい加減、古文書室に挨拶にでも行ってみようかしら、などなど。

が、しかし、11時過ぎに仕事を終えて、久々に同期と帰途を同じくして、
翌日午前半休の彼と、翌日のない私は、
夜更けの妙な高揚感と、久々といううれしさから、
お約束通り、終電を無視して飲みにいってしまった。

平日有効利用計画はいずこへ。
結局、2時頃まで飲んで別れて、彼はタクシー、私は漫喫で始発待ち。

あぁ、これは昼間で寝て過ごす、無為な休日となってしまうかな、と思いつつも、
地元で耳鼻科の受付時間をチェックし、シャワーを浴びて、
アラームを11時にセットして、眠りに就いた。

4時間半は眠れるはずで、普段よりよほどよかろうと床に就いたはずなのに、
3時間後、ちょうど一週間前と同じ恐怖に飛び起きる。
何のことはない、寝るときにもマナーモードにし難い社用携帯が、
けたたましく鳴り響いてくれたのである。

で、案の定、恐怖を与えてくれたのは、
今起きた、午前半休にしといてお願いごめん、という恒例のメールであった。
私も今起きたとも。
メールしてくる相手と、覚醒した自分とに思わず苦笑。

それでも起きてみれば、窓の外は快晴。
せっかくの休みである、ここでお布団を干さないわけがない。
二度寝という退路を自ら断ち切り、何だかんだで休日を有効活用し始める。

こうして何だかんだで、ちゃんと午前のうちに耳鼻科に行き、
昼過ぎには都美にいて、昨夕の計画を取り戻す。

院展はよかった。
出品点数とサイズに対して、会場が小さすぎるという難点はあるけれども、
やはりあれだけのサイズの作品を、間近で見るのはうれしいもので、
近付いてみたり遠ざかってみたりと、存分に堪能。

月曜、出社したら、図録をねだってみようかなと企んだ。

都美を出て、どうしようかな、ととりあえずアメ横をぶらつく。
明日にはキャンプが控えてあり、何か食材でも買おうかと思いつくが、
しかし私自らクーラーボックスなど持っていきたくはない、
そもそも一体何を食べるつもりなのかもわからない。
めでたく現実に戻り、夕食用のはまぐりだけ買う。

ふらふらと秋葉原まで歩き、電車に乗ったのに、
ふと思い立ってわざわざ有楽町で降りて献血をし、
わざわざ無印に寄って買い物をして再び駅に戻ったら、
あぁわざわざあの広い無印の店舗をさ迷わずとも、
改札前に小さいのがあったんだった、と毎度覚える後悔を胸に、
大人しく帰宅したのだった。

あぁ、何だかんだで今日はよい日だったな、と満足。
して、重要なことに気付く。

あ、銀行行ってない。

落胆。
あぁもう、いつまで経っても、記帳できやしない。
そういえば研究室にも行きたがっていたんだっけ、などと思い出し、
引き続き落胆を覚える。

それでもまぁ、急の休みなんて、こんなもんだよな。

『海に住む少女』 シュペルヴィエル

フランス版宮沢賢治、だなんて、そうかな、そうかも。
でも宮沢賢治はそんなにすきじゃないけれど、この人はすきだな。
意味を見失った行為をひたすらに繰り返す青年に、涙。

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2008年8月31日 (日)

旅上

金沢に行ってきました。

雨でした、やっぱり雨でした。
でも降ったり止んだりの霧雨小雨で、それはそれでよかったです。

数年来、金沢に行きたい行きたいと思っていた。
お庭もお城もお寺も美術館も海の幸も山の幸も、やたら期待が膨らんでいて、
でも実際行ってみたら、一体何を期待していたことやら、
と、なりやしないかと、少し不安に思ったものだけれど、杞憂であった。
期待以上のすてきなまちであった。

北陸の京都、とはよく言ったものだけれど、
地方都市らしく小ぢんまりとしていて、京都よりよほど歩きやすくて心地よい。
犀星がよく金沢のまちをこまかに描いたものだけれど、
時を経ているはずなのに、本当にそのまま。
まちというのは、意識的に保存しようと思わなければ、保存できない。

さて、木曜夜、月末の請求書処理をぎりぎりで片付け、
滑り込みで夜行に乗り込む。
金曜朝、浅い眠りから醒めきらない頭のまま、気付いたら金沢。
やたら近代的な東口からバスに乗って、まぁとりあえずと金沢城へ。

お城に行った、というよりは、お城周りを散策した、という方が正確である。
会社用パンプスで砂利道泥道を歩きながら、ふと何かを連想。
あぁそうだ、もう1年半も前、就活帰りに新幹線で草津に行ったとき、
あのときも黒パンプスで、verdeさんと雪の中をはしゃいだっけ。
などと懐古しつつ、森林浴を満喫。

していたら、社用携帯が鳴る。
あわわわわ、何やらかしたかな、と見たいような見たくないようなで携帯を開くと、
何のことはない、私が休暇中であることを失念している先輩からの、
11時出社って書いといて、という毎朝恒例のメッセージであった。
あぁ、こんなことに怯えるなんて、と情けない気分で金沢城を後にする。

続いてお向かいの兼六園。
何が素晴らしいって、兼六園では煙草が吸える。
観光地のつらいところは、完全禁煙のところが多いという点である。
金沢着1時間半くらいか、やっと朝の一服にありつく。

で、兼六園。
以前、私が行ってみたいのだと告げたところ、ある友人は言った。
いや、兼六園て、ただ松がやたら生えてるだけで何にもないよ、と。
しかもこの中途半端な季節。
花の季節でも緑の季節でも紅葉の季節でも雪の季節でもない。
行きたい行きたいと思う反面、一体何が楽しみで行きたいのかとも思っていた。
が、これも杞憂であった。

以前、日本の庭園と西欧の庭園との違いについて書かれた評論を読んだ。
細部は覚えていないが、そこには日本の庭園の特徴として、
小さいながらもそこに自然を、四季を大きく言えば世界を表現している、とあった。
西欧の庭園が、邸宅ありきで、整然と秩序をもって作られるのに対し、
日本の庭園は、自然をなるべく生かして、そのまま取り込もうとする。
人工物であることに変わりはないが、この差は大きい。
そういうことを思いながら、雨の兼六園を散策したのだった。

花も緑も紅葉も雪もなかったが、しとしとと降る小雨は中々風情があったように思う。

兼六園内の庵で早めのお昼。
旅程自体はコストを抑えた分、飲食だけはお金をかけると決めていた。
飲食だけは贅沢をしようと、すきなだけ美味しいものをいただこうと。
で、美味しいお弁当とお酒をいただく。
ごりのお吸い物が最高でした。
昔は苦手だったこぶじめも、何とまぁ美味しいこと。

満腹になって、これまたご近所の21世紀美術館へ。
モダンアートというものが、どうもよくわからなくて、以前は苦手だったのだが、
最近は素直に楽しい。
解説があるとまた楽しいと思えるようになったのも、モダンアートのおかげ。
わくわくしながら1周では飽き足らず、何度も何度もぐるぐる。
子どもが多いな、という印象。
そういう、公園みたいな感じのよいところだった。

ちょうど企画展でやっていたサイトウマコトという人は、
初めて知ったけれど、とても気に入った。
でも重いから図録は買わず、惜しいことをしたかと今でも思うが、
取り寄せるほどの思いはないから、きっと買わなくてよかった。

確か金沢市民は、月に一度、何週目かの土曜日に、
常設展を無料で見られるんだった気がする。
そういう機会を、もっと多くの美術館博物館が設けてくれていいと思う。
特に現代美術なんか、ふらっと気軽に立ち寄ってこそのものだと思うのに。

美術館を出て、武家屋敷のあたりをぶらついて、
お麩のおまんじゅうとお抹茶で一息ついて、
スタバで金沢限定タンブラ生産中止と知って落ち込んで、
美味しいものでも食べようと、市場に向かった。

当初は、料理屋さんで美味しい魚介とお野菜でもいただこうと思っていた。
が、時間が時間だということもあって、
うにでも海老でもいかでも何でも、安い。
おねえちゃん会社帰りけー、まぁったく金曜にひとりでー、
うまいつまみでも買うて晩酌かいなーがははは。
と、おっさんに言われる。
確かに会社帰りではある、荷物も通勤時と変わらないし、まぁそう見えるだろう。
ふむ、うまいつまみでも買うて晩酌、もいいな。

で、うにと牡蠣とさんまをさばいてもらって、お豆腐屋さんでおからを買って、
酒屋さんで地酒をたらふく試飲して、飲めるのかな、というほど買い込んで、
ちゃんと家にもカニと海老を送って、
そりゃもう、うきうきで、駅前のホテルへとたらたら歩いて行ったのであった。

こんなに食べられるのか、と思ったが、美味しいものはいくらでも入るらしい。
だらだらと、音楽を聴きつつ本を読みつつ、箸を進め、杯を傾ける。

そう、お酒。
我ながら、こんなに飲めなかろう、と思ったはずである。
無理だったら持って帰って飲めばよかろう、と思ったはずである。
が、気付けば買い込んだお酒は全て空いていた。
我がことながら、少しく衝撃を覚える。
そもそも私はこんなにお酒がすきだったろうか、と考え始める。
すきはすきだが、どちらかというと、お酒の席がすきだったのではなかったか。
いつの間に、お酒自体にこんなに浸かっていたのか、と暗くなる。

というところで、またしても社用携帯が鳴る、しかも電話。
あわわわわ、何やらかしたかな、と見たいような見たくないようなで携帯を開くと、
またしても何のことはない、朝と同じ先輩であった。
こっち豪雨なんだけど、帰れないんだけど、これってお前が楽しんでいるせいかな、
と言われるが、知ったことではない。
なお、金沢の夜は、止まないなりにも小ぶりの雨で、静かに更けていった。

土曜日、チェックアウト後、ひとまず駅へ。
買い込んだお土産と、いらないものをコインロッカーに突っ込んで、
片町方面へとバスに乗り、繁華街を歩いて、犀川を渡ったところでお昼。
お惣菜の並ぶおいしいご飯やさん。
青ねぎいっぱい、あさりのお味噌汁と肉じゃがが絶品でありました。

道路を挟んで反対側には雨宝院。
犀星が幼少期を過ごしたところ。
「幼年時代」の水を汲む件だとか、仏像を拾う件だとか、そんなことを思う。
でも拝観料をとられるというのがどうも癪で、中には入らなかった。

雨宝院を通り過ぎて、室生犀星記念館へと足を運ぶ。
正直、行こうか行くまいか、悩んだ。
文学館とか、記念館とか、個人的にはそんなに楽しいものでもない。
というのも、作品そのものはすきだけれど、
作家の生い立ちやら交友やらにさして興味もないということが多いからである。
犀星の作品はすきだけれど、果たして記念館に行って私は楽しいのか。

大体にして今回の旅行は、行きたい行きたい騒いでいたくせに、
こういう後ろ向きな考えもついて回り、しかし大体にして杞憂で終わったのだった。

今回の旅行でいちばんよかったのは、実はこの記念館かもしれない。
そもそも犀星の作品は、彼の生い立ちやら交友やらと密接にリンクしている。
自伝的な要素が強い。
だから犀星自身を追うことは、
私が心動かされたいくつかの作品を追うことと、近い、というより重なる。
だからあまり背景に興味を抱かない私でも、違和感なく入り込めたわけである。

流石にその場で小説を読みふけるほどの根性はなかったが、
詩集を開いてしとどに降る雨の昼間を過ごす。
ふいに泣きそうになって、いかんいかんと姿勢を正して記念館を出た。

記念館のあとは、忍者寺こと妙立寺。
このお寺、忍者とは関係ないが、からくり屋敷のような作りになっており、
中を案内してくれるツアーのようなものが30分おきに開かれているのだが、
土曜日ということもあってか、大盛況。
事前に友人から、予約が必要だとの話を聞いていなければ、
私は威容を目の前にしながらすごすご帰らねばならなかっただろう。
私が参加した回だけでも40人前後はいた気がする。
グループに分けるために名前と人数が呼ばれたが、
ひとりで来ていたのはどうやら私だけだったようで、
今更ながら何となく恥ずかしくなる、が、忘れたようにいちいち感嘆。
いや本当、よくできてるなぁと驚嘆し通し。

その後は茶屋街をぶらついて、繁華街に戻って、
買いもしないのにお洋服など見て、
コーヒー飲みつつ煙草喫みつつ本読みつつ音楽聴きつつお手紙書きつつ、
お夕飯まで時間をつぶして、何食べようかと考える。
見もしないで考えても仕方がないので、暗くなった頃、飲み屋通りを散策。

食には贅を尽くすという今回の旅行。
まぁ所詮ひとりだし、贅沢ったってそこまで高くもならない。
と、お値段全て時価のお店でカウンターに座る。
困るくらい、何を食べても美味しかった。
れんこんの蒸し物がおいしかったなぁ、さざえもおいしかったなぁ。
やっぱり目の前で料理してくれるのは見ていて楽しい。
お皿が空くとちょちょっと軽いものを出してくれるのもうれしい。

ひとつ空けて隣に座っていた中年男性ふたりになぜかセックスの話をされ、
何だこれ、と思ったが、1杯ずつおごってくれたからまぁいいや。

満腹になって、気持ちよく酔って、でも思ったほどお値段も張らずに済んだ。
地方価格は素晴らしい。
心底、東京に帰りたくないと思う。

そうはいってもそんな度胸はないので、素直にバスに乗って、
なぜか右膝を痛めて、無事東京に帰ってきてしまったのだった。
まぁ帰ってきても、送ったカニと海老が迎えてくれて、
何となく気分は片足金沢なんだけれども。

とにかくよい旅行であった、また行きたいな金沢。

旅にいづらば
はろばろと心うれしきもの
旅にいづらば
都のつかれ、めざめ行かむと
緑を見つむるごとく唯信ず 

『はつ恋』 ツルゲーネフ

父、頑張るなぁ。
これは中々気に入った。

『ゆで卵』 辺見 庸

言わんとすることは不快でない。
流れ、なんてものがあるかどうかわからないが、そういうものも嫌いでない。
でもどうも雰囲気がすきでない。
言葉遣いの問題かな、何か、こっぱずかしい。

coldtopicくんあたり、すきなんじゃないかな、とふと思う。

「河童小僧」 岡本 綺堂
「鐘ヶ淵」 岡本 綺堂

こんなん読んでても、お給料は入る。

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2008年8月 4日 (月)

気に障る

虫刺されの頻度・程度が尋常でない。

誰かといても、真っ先に私がさされる。
常にどこかが赤く、かゆい。
一度に数箇所刺されるというのもひどい。

しかしひどいのはその程度であって、赤くなるにとどまらず、腫れる。
ぱんぱんに腫れる。
なぜか左足ばかりなのだが、足の形が変わるほどに、腫れる。

多少のかゆさと不格好具合は我慢するとしても、痕が残るのは勘弁して欲しい。

にしたって、これほど虫にたかられる原因もよくわからない。
確かに汗臭いとは思うが、もっと汗臭い人もいる、はずだと思いたい。
確かにお酒は飲むけれど、日中は流石に抜けている、はずだと思いたい。
煙草数一は刺されにくいなんて、あれもどうしたって間違っている。

こんなに悩まされている憎き敵なのに、
つぶしてやることもできずにだた怯えるだけなのが、また悔しい。

「恨みの栄螺」 岡本 綺堂

サザエ投げつけられたら嫌だよなぁ。

某国との領土問題の騒動で、日本大使館に腐った生卵が投げつけられたとか、
そんな報道を耳にした気がするが、腐った生卵って何だろう。
わざわざそのために数週間前から生卵を温めてでもいたんだろうか。
あらやだ卵腐っちゃった、投げちゃえ、ってほどの少数でもなかろうに。

「鴛鴦鏡」 岡本 綺堂

最近変な夢ばかり見るけれど、幸福を約束してくれるようなお告げは何もない。

「怪獣」 岡本 綺堂

一体どんな発禁ワード何だか。

「影を踏まれた女」 岡本 綺堂

そういう古風な迷信を、割と気にする、しかし占いは信じない私。

ジュラシックパーク見てたら、コスタリカ料理を食べに行きたくなったよ。
誰か一緒に行きましょうよ。
インド料理屋のBGMなんてCD聴いてたら、インド料理を食べに行きたくなったよ。
誰か一緒に行きましょうよ。

まぁ、ひとりでも行くんだけれどもさ。

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2008年7月 6日 (日)

小さな憧れ

回転寿司。
デリバリーピザ。
カップ麺。
インスタントラーメン。
コンビニ飯。
冷凍食品。
マック、特に朝マック。

以上、今はさほどでないにせよ、少し前まで憧れだった食事の列挙。

決して我が家は裕福だったわけではない。
というか、逆に貧しい方が上記のような食事はできないと思うが。
何にせよ、徒歩圏内にコンビニがなく、手軽な食事どころもなく、
加えて母がやたらと食に気を遣う人だったため、
幼少の私は以上のような食事をとったことがあまりなかった。

いまだに、多少の憧れを抱きつつも、やはり何となく手が出ない。
健康の面でも、コストの面でも、何となく避けてしまう。

別にお嬢様なわけではないのだけれども。
大学名とこんなおかしな憧れからそのように推察されることが多いが、
確かに赤貧ではなかったにせよ、決して裕福ではなかったのである。

いい加減、iPodを買うべきか否か、迷い中。

朗読者 (新潮文庫)』 ベルンハルト・シュリンク

こういうの読むと、やっぱりドイツ人て何となく近いのかな、とか思う。
この翻訳は嫌な感じがしなくて馴染む。

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2008年6月24日 (火)

毎年恒例

23歳になりました。

こんな年なのに祝ってもらえて、本当に幸せだと思いました。

いや、毎度のことながら、きれいごとと言われようと、
祝われる祝われないではなく、単純にだいすきな人たちに会えたことが、
会えなくともつながりを認識できたことが、結局そういうことが幸せなんだと思う。

いつかの誕生日に、
「プレゼントをあげるより、こうして集まって飲んであげた方がいいでしょ」
とwakに言われたけれど、まったく、否定できない。
いや、勿論プレゼントをもらうのはものすごくうれしいけれども。

だから、急で無愛想なメールに応じてくれたN坂さんは、素敵ですね。

金曜も土曜も日曜も、月曜までも、そういう意味ですごくうれしかった。
会ってくれた人も、メールをくれた人も、電話してくれた人も、
プレゼントくれた人も、食事に連れ出してくれた人も、
声かけてくれた人も、慌ててデザート買ってきてくれた人も、
こっそり思い出してくれた人も、思い出さなかったけれど私にとっては大切な人も、
みんなみんな、どうもありがとうございました。

本当に、週末から今日までずっと、幸せ幸せと言ってばかりです。

『片道切符』 ディディエ・ヴァン・コーヴラール

悪くはない、悪くはないし、きっと好みなんだろうとも思う。
が、やはりどうにも翻訳ものは苦手。
日本人作家の作品だったらきっとすきだったんだろうなと思う。

「鰻に呪われた男」 岡本 綺堂
「海亀」 岡本 綺堂

少し涼しくなれるかもね。

疲れた、とか、鬱だ、とか、つらい、とか、言うのは簡単だけれども、
本当に疲れるのも鬱になるのもつらくなるのも、案外難しい。
それよりよほど、たとえそれが何かを騙していたとしても、
楽しみを見いだす方が容易で、かつ健康的ではなかろうか。

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2008年6月 8日 (日)

困ったことに

スーツを着なければならないわけではない。

恐れていたようなこわい女性もいないので、
というかそもそも女性がほとんどいないので、
何を着ていってもまぁ文句は言われないと思う。

上司から地味だ地味だと言われるくらいだから、
何を着ていってもまぁ文句は言われないと思う。

思うのだが、おかしい。
着ていくものがない。

昨年中はそんな事態を恐れて少しは抑えていたつもりだったが、おかしい。
やっぱり着ていくものがない。

最近わかったことは、ストッキングでは蚊を防げないということ。

被害妄想彼氏』 アポロ

ここのところ書籍化された携帯小説ばかり読んでいたけれど、
まぁいちばん楽しめたのはこれかな。
ラノベ風のドタバタ感。
携帯恋愛小説特有の、悲劇やら感傷やらに酔っている恥ずかしさはない。

相変わらず写真を撮られるのがすきではなくて、
昨日はそれでまた文句を垂れていたのだけれど、
そう言いつつ、今日になって友人たちの過去の写真を見ていたら、
懐古からくる切なさも湧きつつ、でもやっぱり嬉しくなった。

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2008年6月 1日 (日)

位置情報

今日は天気がよかったので、そして買い物をしたかったので、
自転車に乗って出かけることにした、川崎まで。

一応都民ではあるが、都内の繁華街に行くよりは、
よほど川崎に行く方が手軽であるこの環境。
ちょっと悲しい。

悲しさまで感じておいて、なぜわざわざ川崎かというと、
要はLUSHに行きたかったからである。
というか、それ以外何の用もなかった。
会社帰りにLaQuaに寄ればいいものを。

帰途、道に迷う。

調子に乗って自転車などで来るからこういう目に遭う。
というか、何度か自転車で川崎に来ているはずなのに、
たまには道を変えてみようとか調子に乗るからこういう目に遭う。
多摩川が消えた、などと思ったのは初めてだ。

もしやと思って逆方向に走ったら、無事活路を見いだせたのだが、
あまりの方向音痴加減に、悲しい気分になった。

たまに思うが、私も一応、世に言う「OL」というやつであるはずだよな。

センネン画報』 今日 マチ子

これはこれですごくすきなんだけれども、
今日マチ子って、こんなおされな感じなだけじゃ、ないよなぁとか。
そういう物足りなさが、多少。

でも、よかった。

大暗室 (江戸川乱歩文庫)』 江戸川 乱歩

明智さんの名前の使い方に思わず微笑む。

空は晴れ渡っていても、地上には影ができるって、今日マチ子じゃなかったかな。

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2008年5月27日 (火)

もう鳴らせない

泣きたい気持ちは連なって冬に雨を齎していると言いますが、
冬まで待てない雨がしとしとと、いや、じとじととまとわりつくようで。

雨女、卒業したい。

よくよく考えてみれば、ちょうど去年の今頃もこんな気分だったような。
困ったものだ。

それでもK野さんからの電話で晴れ間が差して、
とりあえず明日は洗濯日和。

恋空〈上〉―切ナイ恋物語』 美嘉
恋空〈下〉―切ナイ恋物語』 美嘉

びっくり。

誰が何にどうして泣けるのかいまいちわからないなぁ、と正直に疑問。
まぁ話の展開はめまぐるしいので、飽きないといえば飽きないのかな。
でもパターンが同じだからやっぱり飽きるな。
展開はするけれども内容はないしな。

なんて書くとまた叩かれそうだがしかしこれ以上どうにも。
売れ線にさっぱりついていけない自分が悲しくもあるけれども。

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2008年5月20日 (火)

なりきれない

夕飯を作っていたら、F島くんから電話がかかってきた。

出てしまった以上、
昨晩具合が悪いと言った私を多少なりとも心配してくれている以上、
無碍に切るわけにもいかないが、
しかし片一方のコンロですでに煮物を火にかけてしまった以上、
もう片一方の炒め物の手を止めるわけにもいかない。

ここはあれだ、社会人らしく、肩首で電話を支えてみよう。

と、職場でもやったことのないことをしてみたら、
「受話器に口が近すぎるのか、何を言っているのかわかりません」
と文句を言われてしまった。

うん、まぁ、そんなもんだろう。

怪しいシンドバッド (集英社文庫)』 高野 秀行

日本人女性の胸はどうして小さいんだろう、ねぇ。
やっぱり、旅行はしたくなるなぁ。

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2008年5月17日 (土)

降ります

毎朝、三田で浅草線から三田線に乗り換える。

浅草線が混んでいることはそうそうない。
が、昨日に限ってものすごく混んでいた。

高校生らしき私服の若者が、うじゃうじゃいた。
修学旅行と見た。
空港線から乗るとこういうことがあるから困る。

で、三田で降りるはずの私は、混雑にドアに辿り着けなかった。
無情にもドアは閉まり、大門まで行く羽目になった。

ホームが同じなら、三田まで一駅戻ればよいのだが、
これがまた悔しいことに、上下線でホームが異なる。

考えるうちにも人波に流され、結局大江戸線まで連れて行かれる。

大江戸線。

確かに目的地には着く、1本で着く。
しかしひどく遠回りである。
目的地春日まで、三田線なら三田から15分くらい。
しかし大江戸線なら大門から30分くらい。

流石に遅刻はせずに済むが、新人らしくないことにはなる。

春日に着いて、いつもはたらたら20分近くかけて歩くところを、
柄にもなく走る。
何とまぁ爽やかな朝。

おかげでいつもより5分遅いくらいで到着したが、
直属の上司は始業40分後の出社であった。
走ったくせに、待ちぼうけ。

素晴らしきかな、フレックス。

幻獣ムベンベを追え (集英社文庫)』 高野 秀行

メンバーの写真に時代を感じる。
世の中にはすごい人もいるもので、そしてすごい人はすごい人と群れるらしい。

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2008年5月13日 (火)

連想

「そうなんですね」という相槌が、どうもすかない。

「そうなんですか」「そうですね」「そうだったんですね」などの、
肯定なり発見なり驚きなり感服なり、そういう相槌ならよいのだが、
「そうなんですね」は、どうも何を表しているのかよくわからない。

こちらの言ったことを、必要以上に確認されている気がして、
あるいは必要以上に、実感以上に、同意を強調されている気がして、
どうも気になってしまう。

ということを、友人の日記を読んで思い出した。

因みに私の口癖としては、まぁ多々あるのだろうけれども、
「うーん、わかんないけどさ」が最近よく出るのが、我ながら気になる。
これを頭に持ってくることで、深追いされることを避けているんだろう。

異国トーキョー漂流記 (集英社文庫)』 高野 秀行

語学のセンスのある人って、すごい。

こういう、頭使わなくてもちゃんと面白い本はいいなぁ。

東京なり日本なりが異化する瞬間て、確かにあって、
こんな突拍子もない登場人物たちがいなくてもそれは確かにあって、
だから読んでいて素直に入ってくる、のかしらね。

学生のときにできたような旅行は、もう中々できないかもしれないけれど、
今いるところを異化させることによる、擬似異国旅行は、
きっといくらでもできるんだろうと、そう思う。

それにしても今日も寒い。

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2008年5月 8日 (木)

新人

いい加減、黒に飽きたので、グレーは似合わない気がするので、
茶とカーキの中間みたいな色したスーツを新調。

新入社員ぽくない、と上司にも同期にも笑われた。

若々しさはどうしたら手に入るか。
まずはやはり黒いリクルートスーツに白いシャツか。
って、白いシャツなんて持ってないな。

少将滋幹の母 (新潮文庫)』 谷崎 潤一郎

時平の笑い上戸ぶりに、親近感。

終盤の美しさはさすがだなぁ、と。

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2008年4月30日 (水)

口実

2年前の6月かな、つぁんと私の誕生日のとき、
こんなときじゃないとみんなで集まれないから、
と、当時もなぜかやたらと忙しかったhoriが言ってくれて、
自分の誕生日がみんなの集まるきっかけになりえるということが、
ものすごくうれしかった覚えがある。

と、mugaくんも思ってくれたんじゃないかな、という、
いつものメンバ全出席で大盛況のmuga誕生会でありました。
いやはや、人気者で何より。
きみのおかげでみんなと会えた、ありがとうおめでとう。

卒業して1ヶ月、何も変わっていないと言われるが、
実際はきっとそうでもない。
飲み方が変わってしまったとこぼしていた彼女をはじめ、
生活の変わった人も変わらない人も、
みんなきっと色々なことが少しずつ変わっている、当然。

近視眼的な友人関係は、ふとした小さな変化がひびをもたらすけれど、
近いがゆえに、お互いを離れて見る余裕がある関係ならば、
多少の変容を認めたとしても、それを変質として受け取らずにいられる。

だから久々に会った人に、久々に会った親しい人に、
変わっていないと言われることは、きっと悪いことではないと思う。
もちろん、変わった上でも好意を持ってもらえるなら、
それでも構わないけれども。
というか、久々と言うほど会ってなくはない。

しかし変質はせずとも成長はしなければなりません。

「江戸か東京か」 淡島 寒月
「亡び行く江戸趣味」 淡島 寒月

コミュニティとしてのアイデンティティはやはり持つべきだと思う。
敵愾心とまでいく必要はないし、それが強い排他に結びつく必要もないが。

確か淡島寒月は、西洋かぶれのあまりに日本文化を学んだのだったと思うが、
西洋近代でも何でも、ひとしなみに何かを敷衍させるのならば、
個を維持するために、彼のような姿勢をとることがいちばんよいかと私は思う。
自国文化をよく見た上で、他の文物をいくらでも取り入れる、「玩具」として。

特に「亡び行く江戸趣味」の後半で語られる、
光を際立たせうる闇の消失、情趣の消失についてのくだりは、
前半で何事にも親愛を見いだすと言いながらも、
そもそものベースに自国文化があるということのあらわれであろう。

感傷的な懐古はすかないが、古典回帰は大切だと思うのだ。

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2008年4月26日 (土)

必死

必死なところがすきだな、と同期に言われる。

自分でいうのもおかしいが、必死さのわかりにくい人間だと思う。
これまで、バイトでも学業でも、
必死どころか適当に手を抜いて、要領よくやっているように見られることが多かった。

実際、他の同期たちには、え、どこが必死なの、と爆笑されたし、
この1ヵ月間、必死に何かをした覚えもない。

が、彼曰く、
うまく会話が成り立たないときとかの必死さがね、と。
言った途端、周囲が簡単に納得した。

先週ジョシツキに、一言で言えば、無理しなくていいのに、て感じだよね、
と言われたことを思い出し、情けない気分になった。
どうも悔しい。

狭義の同期には恵まれたような気がしている。

いい加減、しっかりしないとなぁ。

「あばばばば」 芥川 龍之介

だから母になんてまだまだなりたくない。
まだまだこんなに頼もしくならなくていい。

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2008年4月23日 (水)

おたのしみ

5月1日、メーデーをどう使うか考える。

平日をこれほどまでに心待ちにするなんて、
たかだか20日程度で、随分と毒されたものである。

それにしても、平日にふらつけないというのは、考えていた以上に不便であった。
休日は思う以上に便がよろしくない。
お金をおろせば手数料はかかるし、どこに行っても混雑に巻き込まれる。

夜からはゆきんとつぁんと遊ぶとして、さて日中をどう使おう。

と、考え考え、想いばかりが膨らむ割に、
結局のところ、大したことは何もしないような、そんな気もする。

やはりガレ展かな。

緑衣の鬼 (江戸川乱歩文庫)』 江戸川 乱歩

髪の毛まで緑って、しかも人の髪の毛って、すごいなぁ。

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2008年4月17日 (木)

ぼんやり

たくましいね、と、やたらと言われた。
たくましいかな、たくましいか。

めずらしいね、ともここ数日よく言われる。
めずらしいかな、めずらしくはないだろう。

職場から上野は目と鼻の先、というほどではないかもしれないが、
とにかく近いのに、平日日中を使えないというのはやはり惜しい。
土日は込み合っているだろうか。
いや、仏像なんてさほどの人を呼ばないだろうか。

行きたいのは、薬師寺展、柿右衛門展、ガレ展。
来月にはイスラーム陶器の展示も始まるか。

「芥川の事ども」 菊池 寛

室生犀星の作品の中で、芥川の死について触れた箇所があって、
それはたったの数行だったけれど、なぜか涙を誘った。

私はとりたてて芥川を好んで読むわけではなく、
むしろこれほど名の通った偉大な作家だというのに、
通った名のみを飲み込んで、作品自体にはさして触れてもいない。

大家というのは、こういう影響があるから気の毒だ。

本作もやはり、私は芥川のことなんて何もわかっちゃいないのに、
ひどく淋しい気分になってしまった。

「もっと平生花瓶を壊していたらあんなことにはならなかったと思う」と、
私もそう思うから、人の癇癪は否定しない。
「何人をも許し、何人よりも許されんことを望む」だなんて、
そんなこと、言わせたくない。

たくましい私は、芥川のもたなかった、現世的な生活力をつけていくことであろう。

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2008年4月14日 (月)

非生産的

金曜に、才能って何かな、と問われて私は、性格じゃないかな、と答えた。

認めたくないだけかもしれないが、
才能って、別に先天的なものでも不可変なものでもない気がする、と答えた。

それからずっと、性格って何かな、と自問していたら、
僕って親類の誰それに似てると思って心配なんだ、というメール及び電話が来て、
いきおいそれを慰める羽目になった。

私は特定の親類に似ていると言われることがほとんどない。
容姿のことではなく、性格のことである。

まず父母には似ていないし、縁者まで見てもあまり似ている人はいない。
もちろん、ここが似ているそこが似ているという程度のものはあれど、
全体的に誰かを継いでいるという感はない。

父母なり親類は、確実に生来の素地を作ってくれたけれど、
私がこんな人間になったのは、もっと多くの人なり出来事なり環境の刺激による。
と、少なくとも、父母にあまり似ていない私は、そう思っている。

そういえばある友人が、以前、
僕は特に誰か、というのはそのときは女性に限定してだったが、
とにかく誰か他人の影響を受けた覚えはないな、と言っていたが、
私などは、どれほど人の影響を受けてきたかわからない。

とにかく私はそう思っているので、
素地はあったとしても、あるいはそのウェイトが大きいにしても、
結局きみがその似ている誰かの轍を行くかどうかはわからないし、
そこに心配を覚えるなんて、つまらないからやめなさい、と言ったら、
慰めてくれるならもうちょっと優しく慰めたらいいのに、と返された。

さてそれで、才能、である。

才能が性格で、性格が外部刺激によるものであれば、
才能とは先天的ないし不可変なものでないにせよ、
自意識が入り込むことはないのだろうか。

というとそうではなくて、
その外部刺激を選ぶ、あるいは消化する、指向なのかと、そう思った。

才能という言葉で、可能性と努力を否定するのは、
簡単だけれど、どうせそれでも文句を垂れるのだから、
まだ私には早いかと思う、あと運命という言葉。

まぁ、可能性とか努力とか、そういう言葉を妄信する気はもちろんさらさらないが、
そう考えれば大体のことは否定せずに、
かと入ってただ諾々と飲み込むに終わらないで済む気がする。

現状に当てはめるのならば、
選べない刺激をどう消化するか、それが発揮すべき才能かと。

技術的なアドバンテージという意味での才能が何もない私の、せめてもの抵抗。

「愛と婚姻」 泉 鏡花

その人のために喜び、その人のために祝して、それが幸せ。

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2008年4月10日 (木)

ファソラシドレミファソー

通勤時間は1時間ちょっと。
電車に乗るのは45分程度、しかも大方座れる。

2時間強の通学時間を耐えてきた身としては、何ら不満はない。
むしろ快適すぎて申し訳ない気にもなる。
不便は人をおおらかにする。

それにしても、3年間通い詰めた三田で乗換えというのは、
何だか変な気分である。

浅草線から三田線への乗り換えだから、
電車は降りても地上の町並を眺めることはない。
地下鉄だから、もちろん車窓から町並を眺めることもない。

何だか変な気分、何だか味気ない。

それでも毎日通っている。
かよっていないけれど、とおっている。

センセイの鞄 (文春文庫)』 川上 弘美

「泣くよりも、お酒を飲むほうがよかった」って、ツキコさんが。

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2008年4月 7日 (月)

常春の君

「四月七日ですからね。お忘れなく」

と、そんなシーンがあった。
お花見の誘いであった。
今日・明日の雨で花もさすがに散るだろうか。

機械的に、自分なりのお決まりの文句を並べていただけの、
何の気もない「文書」に対して、
生粋の文系の人の文だな、と思って、
思いがけないしかし適切な表現が出てくるのを、いつも楽しみにしていた、
と先日、それこそ思いがけず、お褒めの言葉をいただいた。

気恥ずかしかったのは、褒められるほどのものは何も書いていないからか。
語彙は思うよりよほど少ない。

それでも言葉には気を遣っていたいものである。
生粋の文系の人の文、など書く機会はなくなるにせよ。

仕入元は、きっとずっと、読んでは忘れてきた小説たちだったろうが、
何を忘れようと、何かは残るものである。
それは小説にとどまらず、何に関してもであるが。

触れてきたものは全て、いかなる形か知らないが、
ごくわずかであろうとも、何らかを響かせているはずである。

決して退嬰的なわけではないはずである、まだ。

「四月馬鹿」 織田 作之助

「自分を汚なくしながら、自虐的な快感を味わっているようだった。」

自虐的だけに尽きるから、いっそ心地よいのである。
自己完結の満足を得ているから、いっそ心地よいのである。
そこに幼いひけらかしや、悪趣味な露出傾向がないから、いっそ心地よいのである。

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2008年4月 6日 (日)

もくもくもく

何度も禁煙を試みたが、結局今も吸っている。

会社ではさすがにまだ吸わないのだが、
先日はお酒と食事の席があって、立席だったし、
まぁこういうときくらいならいいだろうと思って、
こそこそと席を外して、別のフロアに設けられた喫煙所に行った。

私が社内では吸いがたいなと思うのには、
やはり性別の問題もあるわけで、
同期の男性たちの間では、既に喫煙コミュニティができあがっているらしく、
喫煙所では彼らが歓談していた。

私の姿を認めた彼らが発した言葉がまず、
「喫煙者に悪い人はいない、歓迎歓迎」であった。
…嫌な予感がする。

続いて問われたのは煙草の銘柄、披露されたのはいかに重いものを吸っているか。
…嫌な予感が予感で済まされなくなってきた。

折しもその日は健康診断の問診票が配られており、
そこには喫煙習慣についての質問があった。
1日に何本吸うか、いつから吸っているか。

「流石にまずいかなと思って少なく見積もって20本にしといた」
「素直に7年前からって書いといた」

恥ずかしい、聞いている方が恥ずかしい。

古語で「はずかし」は、こちらが恥ずかしくなるほど素晴らしいことを言ったと思うが、
これはこちらが恥ずかしくなるほど幼い。
「喫煙するおれ」がすなわちアイデンティティとなるラベル理論。

あぁ、これと一緒には思われたくないな、と、禁煙を思った。

という話を、F島氏にしたら、禁煙は無理です諦めてくださいとばっさり切られたが、
要は彼らと同席しなければいいだけじゃないですか、とまっとうなことを言われ、
それもそうかと禁煙を遠ざけた。

しかしこんなことを書くと、程度が知れてしまうか。

隠居の日向ぼっこ (新潮文庫 す 9-11)』 杉浦 日向子

嫌味じゃない程度の、懐古。

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2008年4月 3日 (木)

手指

ずっと飲食のバイトをしていたから、
マニキュアはおろか、ろくに爪を伸ばすこともなかった。

バイトを辞めたらマニキュアするんだ、などと思っていたけれど、
爪が伸びてくると、なんとなく不快になってくる癖が抜けず、
いつ衛生検査があっても大丈夫な状態がずっと続いている。

あ、でも切り傷多すぎてアルコール吹きかけられたら泣いてしまう。

とにかくそんな状態なので、ちょっと伸びてくるとすぐに切ってしまうのだが、
どうも最近、爪の伸びが悪い気がしてならない。

今日は爪を切ったのだが、どうもうまく切れない。
というのは、実家で使っていたものと違う爪切りだからなのだろうが、
はて、爪を切るのにこれほど苦戦したのはいつぶりかと考える。

考えると、少なくともここ最近は苦戦した覚えがない。
引っ越してから2週間以上が経つが、ここ最近は苦戦した覚えがない。

2週間以上、切っていなかったとは考え難いが、しかしどういうことだろう。

古道具中野商店 (新潮文庫 か 35-7)』 川上 弘美

ふわふわするのに、でも足は確かに地についている。

随分前に、ある人に川上弘美について問われて、
私は確か、女性視点て感じかな、と答えたと思う。
と言って、そのときはさして彼女の著作を読んでいたのでもなくて、
ただそういう印象があって、そう答えた。

というか、世間の扱いも、そんな気がする。

そんな考えもせずに何となくで、しかし断定的に答えてしまったことを反省、
したかどうかはともかく、まぁよくもなかろうと、
あれから何作か彼女の著作を読んだけれど、
あながち間違ってもいなかったなぁと思う。

いや、当初答えたときとは、明らかに私の中で変質したけれども。

女性視点といっても、落ち着いた視点で、
決してあおりでも俯瞰でもない視点で、
熱くはないけど冷めてもいなくて、人肌みたいなぬくぬくとした安心感で、
重くはないけど軽々しくもなくて、寄りかかり合う人の重さみたいな安心感で、
そういうところが、汚くもきれいでもなくて、割とすきだなぁと思う。
たとえば男性を文鎮にたとえるところなんて、すきだなぁと思う。
本作の舞台でもある古道具屋というのは、まさに彼女の世界観かなとも思う。

だから、男性の指が欠けているなんていう、
小川洋子みたいな、はたまた三浦しをんみたいな、
そんな設定に少し怯えたけれども、
でも多分、彼女らの描くような喪失とか穴とか欠落とか、
そういう強い意味合いよりもむしろ、
ケロイドにならないつるっとした感じとか、その軽い物足りなさとか、
あとは少しのぎこちなさとか、そういうことが言いたかったのかなと思った。

どろどろとさらさらの混ざったような、汚いのに汚くない、
そういう人に私はなりたい、なれない。

JPSさんにいただいたお花が、まだ元気に咲いていて、うれしい。
つぼみはちゃんと開いてくれるかな。

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2008年3月20日 (木)

まやかし

お彼岸。

朝からお寺さんがいらして、勧誘かと思った。

お墓参りに行こうと決めた日には雨が降るんだから困ったものである。
それでもとりあえずお墓参りに行き、お約束通り、同姓の他家にまで線香をやり、
おはぎを買って帰った。

コートをクリーニングに出した途端、寒くなった。
雨が本降りになる前に、と思って、夕方、件のコートを取りに行った。

先日、すっぴんで出歩いていると書いたが、
越してきてからは、何もかもがチャリ圏内、
つまり「ちょっとそこまで」の気分で行ける圏内で済むので、
その傾向がますます進んでいる気がする。

今日も今日とて、化粧などまさかするわけもなく、
だるだるのミニのワンピースの上に、
寒いからと、寝巻き同然のだぼだぼのセーターを羽織って、
鍵と引換証だけあればよいからと、いつぞやベトナムで買ってきた、
ビーズをあしらった真っ赤なちゃちなポシェットだけかけて、
クリーニング屋に行った。

先客の老婦人に言われた。
「あらあら、雨の中、おつかいなのね」

確かに22歳のする格好じゃないとは思いましたが。

黒蜥蜴・湖畔亭事件 (江戸川乱歩文庫)』 江戸川 乱歩

美輪様の黒蜥蜴が見たい。

ここのところ読んでいたのは、明智さんの長編が多かったから、
最後には、たとえそれが無茶苦茶であろうが、
謎がはっきりと解明されるものばかりだったけれど、
「湖畔亭事件」の最後みたいな、曖昧な感じも、とてもすき。

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2008年3月10日 (月)

湯治

今日は予定もなかったので、旅帰りだし、だらだら寝ていようと思っていたら、
朝方、stutsくんからの電話で起こされる。

で、温泉に行くこととなった。

お互い旅疲れを落としに、ということで、ゆるゆるドライブ。
BGMもゆるゆる、天気もよくて、ちょっとうとうとする。

途中、小田原でちょっと贅沢ランチをいただいた。
中華だったのだが、「ちょっと贅沢」な割にメインがやきそばだったので、
何となく庶民くさいな、とメニューを見ながらstutsが言った。
そう、どんなに豪華でも、「やきそば」と文字で見ると、何となく庶民くさい。
いや、出てきたものは豪華でとても美味しかったけれど。

腹ごしらえをした後は、温泉を求めて箱根へ。

せっかく車だし、と強羅まで足を伸ばして、露天のある温泉宿に入る。
あまり大きなところではなく、ほぼ貸切であった。
ひとつひとつのお風呂も4人も入ればいっぱい、というくらいだったのだが、
ひとりには充分広く、気持ちよかった。

男湯と女湯とに別れる前に、長湯しても構わないと了解をもらっていたので、
本当に長々とお湯に浸かっていたら、
その間にstutsくんは散歩に行ってしまったらしい。
流石に申し訳なかったが、
戻ってきた彼がやたらとはしゃいでいたので、まぁそれもまたよしとする。

存分に癒され、またゆるゆると帰って行った。

と、そういうよい気分であったのに、
途中立ち寄ったコンビニで、面倒なにいちゃんというかおっさん達に絡まれた。
怖くはなかったが、面倒だった。

良識ある社会的な大人は、歩き煙草しないよ、と言いたくなったが、
良識ある社会的な大人でない私には、できなかった。

あぁ面倒な人、とは、できれば思われたくないものです。

まぁそんなこともあったが、総じてよい1日であった。
stutsくん、誘ってくれてどうもありがとう。

箱男 (新潮文庫)』 安部 公房

語り手は誰なのか、つまり物語を作るのは誰なのか、
つまり世界の創造主は誰なのか。
自己を認識する主体誰もが、創造主なんだと、と思いたいことが私はよくある。
私が死ねば、世界が終わる、と思いたいことが私はよくある。

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2008年3月 9日 (日)

サークルの、最後の合宿に参加してきた。
3泊4日、沖縄。

合宿と言っても、8人しかいなかったけれども。
まぁそのくらいが行動しやすくてちょうどいいと思う。

3年前にも合宿で行ったが、
あのとき1年生だった私も、もう卒業か、と不思議な気分であった。

今回は、ちゅらうみとやんばるを満喫。

ヨシヲ、hori、ryoの3人と別れて、1年生4人とドライバー私の5人で、ちゅらうみ。
若者と保護者、の感は否めない。

水族館でサメやらカメやらマナティやらに興奮した後、海ではしゃいだ。
なかなか海に辿り着けず、衆人環視の中、フェンス越えなど試みる。
足の短さゆえ、フェンスにのぼったはいいが降りられなくなり、
4人に少し遅れていると、ねじのがその情けない様子にカメラを回し始める。
まるで私だけ不法侵入者である。
ひどいよ、みんな。

どうにか海に辿り着き、ひとしきり叫ぶ。
沖縄は思っていたより寒かったが、我慢大会かのごとく、入水。
寒がりつつも、それがまた異様な叫びを生み、とにかくはしゃぐ。
なお、さほど広くないビーチだったとは言え、海に入っていたのは我々だけであった。

水が透明。
ハワイの海もそうだったけれど、磯臭さがあまりなくて、
あがった後もあまりべたつかない。
何でなんだろう、不思議。

それにしても海を前にしたねじののテンションはすさまじかった。
ピョン吉ジャージを着た、Mちゃんの愛らしさには悶えた。
彼らを見るだけでも、来た価値はあったかと思う。
愛らしいマネージャーのもとに集まった弱小水泳部という設定で騒ぎに騒ぐ。

これならryoも「俺らのが勝ったね」とか訳のわからないことを言うまい、
と5人して満足した日であった。

そんなちゅらうみも非常に楽しかったけれど、
今回のメインは翌日のやんばる方面だったと私は思う。

そもそもやんばる方面に行きたいと言い出したのは私で、
嬉しくもこのわがままが受け入れられる。
比地大滝という滝を見に、トレッキングでもしよう、ということだったのだが、
運悪く、遊歩道工事中との情報を受け、落ち込みを隠せない私。
しかし何とはなしに見ていた、ホテルのツアー案内に、懐かしい地名を見る。

ター滝。

3年前の合宿に参加した面々なら覚えていらっしゃるだろうか。
当時の3・4年女性陣が行ったター滝。
何やら謎の滝で、サンダルを流され、どれが滝だかもわからず、断念したという、
そんな幻のター滝。

すかさずhoriに、ねぇねぇター滝だよ、と騒ぎ立て、2人でやたら熱くなる。
という流れで、目的地はどこにあるかも知れないター滝に。
hori、ヨシヲ、ryo、mugaの4人とmonica、ねじの、Mちゃん、私の4人という、
明らかに力のバランスの偏った二手に分かれて、いざター滝へ。

ずっと海沿いを走っていて、途中の景色もきれいだった。
海が本当に青い。
曇りは曇りで、空と海が混ざってきれいだけれど、
やっぱりせっかく南国なら、ぱきっと晴れて、真っ青の海が素敵。

そんな風に能天気に、出発前にmugaが設定してくれたカーナビに沿って、
いや、ときどき逆らいながら走っていたら、
horiカーから電話が入り、カーナビにター滝が載っているという。
一端合流し、horiカー連中の知恵を授かり、いざター滝へ。

が、しかし、せっかく教えてもらい、ナビにも載っているというのに、
それを見もせず、道端に見つけた「ター滝こちら」みたいな看板に従う私。
これがなぜか、カーナビの言うター滝と違ったらしい、と知ったのは2時間くらい後。

とにかく看板に従って、山道に入っていく。
そう、山道。
対向車来たらどうしよう、道間違えてたらどうしよう、
いつまでこの山道進むんだろう、携帯圏外だし何かあったらどうしよう、
とものすごく不安になる。

あまりの不安に、ちょっとひとまず引き返そうか、と言うと、
ちょうどよくUターンなり駐車なりのできそうなところに出たのでひとまず停まる。
目の前には小川。
と、後続の車もそこに停めるので、ター滝について尋ねてみると、
その小川がター滝への入り口だと言う。
ちょっとじゃぶじゃぶ行けば滝みたいですよ、と親切にも教えてくださる。

と、聞いた途端、さっきまでの不安はどこへやら、やたらうきうきしてくる私。
早速サンダルを脱ぎ、「ちょっとじゃぶじゃぶ」の気持ちで、小川に入る。

水、冷たい。

ものすごく冷たい、そして痛い、小石だらけで足の裏も痛い。
若人3人が、本当に寒がり、痛がっている。
まるで脱北者のように、苦行かのように小川の中を歩く。

先ほどの親切な2人組は、用意周到にクロックスで颯爽と行ってしまったが、
しかしこちらの装備はと言えば、ねじのとmonicaはスニーカー、
Mちゃんはパンプス、私はヒールのサンダルと、どう考えても場にそぐわない。
というか、そもそもトレッキングを望んだ私の装備がサンダルって、
我ながら何か間違っている。

それでも何だか楽しくなってくる私だったが、
どう考えても3人は寒いだろうし痛いだろう。
Mちゃんに至っては、水の冷たさに、真っ白な足が赤くなって、痛々しい。

あぁこれは、4年権力に逆らえずにいるだけではないか、と思い始め、
かと言ってあれだけ騒いでおいて私がここで引き返すと言うのもいけない、と思い、
「ちょっとじゃぶじゃぶ」の気でいる私は、
もし辛かったら私ひとりでちょっくら行くから無理しないで、などと言ってみたが、
しかしひとりでは絶対に滝に辿り着けなかったであろう。

とにかく、あそこで私を見捨てないでくれて、ありがとう。

「ちょっとじゃぶじゃぶ」かと思いきや、そんな容易なものでもなかった。
もちろん人工の遊歩道もない。
そりゃ先輩方も断念するだろう、という程度の足場の悪さ。

で、それがものすごく楽しい。

男性2人と私は、靴を犠牲にすることにして、靴のまま水の中を行き始める。
Mちゃんは革のパンプスだったので、なるべく水に入らないよう、
ちょこちょこ出ている石だか岩だかを器用に行く。
次第に、水の中を行くというより、左右の岸の岩場を行くようになる。

もしもひとりだったら、岩場を行くなんて、気付きもしなかった。
男性2人を前に、ロープにつかまったりしながら岩場を行く。
ヒールでがたがたつるつるしながらも、ちんたら岩場を行く。

何だかみんな、テンションがあがる。
monicaとねじのは、「男の子」だなぁと感心する。
ものすごくハイになっているくせに、いちばん歩くのが遅い私であった。

入り口から20~30分だったのだろうか、もっとあったのかな、
どうにか幻のター滝に到着。

感激。
マイナスイオンたっぷりだぜ。
とりあえず叫ぶ。
爽快な気分になる。

ちゃんと大きな滝で、滝壺は泳げるくらい。
木登りなどしていた男の子2人だったが、結局、滝に打たれに行くことに。

なぜかこのサークルの合宿は、やたら脱ぐなぁといつも思うが、
今回はcoldtopicもいないし、誰もそんなこともしないだろうと思っていたが、
そんなこと、やっぱりしないわけなかった。

タオルも何も用意してきてないのに、トランクス1枚で滝に打たれに行く。
痛いよ、寒いよ、つぶれちゃうよ、溺れちゃうよ、と心配になりながらも、
Mちゃんと2人、カメラを回す。

と、そこでちょうどhoriとmugaが、続いてヨシヲとryoが到着。
再会の感動に浸る。
いや、感動は後回しだな、やっぱり滝に向かう2人に注目。

で、見事滝に打たれながら、やっぱり叫ぶ。
いやはや、本当、すごい、よくやる、見ている方はちょっと感動した。

で、感動の再会タイム。

看板には気付きながらも、とりあえずナビに沿って走った冷静なhoriカーは、
いつまで経っても我々が来ないので、
看板ター滝に行ったな、と判断して来てくれたのであった。
しかし、車が停まっているとは言え、何せ道が道である。
絶対に女性陣が反対しただろうと思ったらしく、逡巡していたらしいが、
一向に帰ってくる気配もない。

まぁ、反対するどころか、私が行きたい行きたい言っていたわけだが。

それで彼らもこの道をやってきて、滝にて再会、という運びであったらしい。
あぁもう、本当にいいやつらだなぁとうれしくなる。
正直、同期やryoくんとの合流は、ものすごい安心を覚えた。
緊張が解けるというか、気が楽。

それで8人揃って、滝に打たれた裸の2人を散々いじってみたり、
上の方に登ってみたり、下ってみたり、
mugaが地味に転んでみたり、ryoに「きみ、四足歩行じゃん」と言われてみたり、
ヨシヲに「何でヒールで行く気になったのかわからない」と言われてみたり、
みんなに助けられたりしながら、道のわかっている気楽さの中で帰っていった。

ター滝制覇の感動を、どうしてもwo崎さんに伝えたいと思ったが、圏外だった。
夜になって写メを送ったら、覚えててくれてかなりうれしかった。
「ター滝制覇しました」だけでわかるって、結構すごいんじゃないか。
というかそれしか書かない私もおかしいと今になって思う。

看板ター滝制覇の後は、ナビター滝も見に行った。
こちらはちょっと遊歩道のようなところを歩けば見られたが、
それだけに感動は小さく、私は看板ター滝を本ター滝とすることにした。

ター滝の後は、本島最北端の辺戸岬へ。
絶景なるかな。
私は夜景というものがさしてすきではないのだが、
海やら山やら崖やら洞窟やら島やらが空やらが見渡せるのは、大すきである。
気分がよろしい。
ねじのをよくわからない鳥の像に登らせ、笑った。

そういえば撮った写真を見ていたら、なぜかねじの率が高かった。
彼は絵になるのだろうか。
まぁそもそも、大して写真を撮っていなかったけれども。

その後は金剛石林山とやらに行き、奇岩や絶景やがじゅまるを求めて歩いた。
がじゅまる。
これは、すごい。
何であんな植物がいるんだろう。
タイはアユタヤの、木に抱かれた頭だけの石仏を思い出す。
がじゅまる、というラ行四段活用動詞を多用しつつ、ここで集合写真撮影。
ryoくんの合成写真が楽しみでならない。

それにしても、がじゅまるの木の中からねじのが撮った映像を見たら、
本当に覗きでもしているかのようなものになっていた。

さて、帰ればこれで最終日、飲むしかない。
ホテルに帰って例のごとく飲む。
例のごとく人に電話をかけ倒す。
JPSさん、付き合ってくださってありがとうございました。

面子が面子なので、飲むと言っても大人しいものだが、
しかしここで期待通り、mugaが酔っ払ってくれた。

色々と面白い言動を残してくれたが、
なぜか私はどつき倒され通しで、その上、不思議にも髪の毛を引っ張られていた。
どつき倒すまではわかるとしても、なぜ彼は人の髪の毛を引っ張っていたのだろう。

散々騒いでいたが、みんなでねじのの撮っていた合宿映像を見始めると、
気付けば「あらま」とでも言い出さんばかりのポーズで寝ていたmugaだった。
それにしても、映像見てたら楽しかったな。

この日はアクティブに動き回ったこともあってか、みんな眠りに落ちていく。
なぜか眠くならず、お酒を処理するという使命感に燃える私。

というか、ター滝トレッキングにしても、さほど疲れた感はない。
四足歩行に近かったからなのか、ちんたら歩いていたからなのか、
はたまた田舎育ちだからなのか。
高いところから降りてくるのに、ヒールで足元が不安で、
腕で体を支えていたため、その筋肉痛は若干来ていたが、他は特になく、
体力あるじゃないか、と自分に感心した。

先に睡眠をとったmonicaとねじのが付き合ってくれて、
梅酒と焼酎を空けながら、こそこそ色々と喋る。
なぜか4年間の思い出ダイジェストなどを引き出される。
いや、ダイジェストになんかできません。

何だかんだ、後輩とこうして話す機会というのもそうないもので、うれしいものでした。

で、8人みんなで、寝坊。
慌しく準備をし、空港へと車を走らせた。
直接福岡に帰るヨシヲくんと別れて、羽田へと飛び立ったのであった。

あぁ、ものすごく楽しかった。
みなさんどうもどうもありがとう。
またどこか旅行しましょう。

白髪鬼 (江戸川乱歩文庫)』 江戸川 乱歩

名著。

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2008年3月 1日 (土)

いつのことだか

近所に高校がある。
目の保養には事欠かない。

今日は土曜だが、なぜか高校生がたくさんいた。
どうやら卒業式だったらしい。
バス待ちをしている女子高生たちが、卒アルらしき大きな冊子を開きながら、
笑ったり泣いたりしていた。

そう、泣いていた。

高校の卒業式など、もう4年も前のことになってしまうが、
そういえば私も卒業式は、なぜか大泣きしていた。
私は確かD組だったはずだが、
B組あたりの生徒の名前が読み上げられている時点で、既にぐすぐす言っていた。

我ながら、意外であった。

自分ながら意外だったが、傍目にも意外だったらしい。
mixiの紹介文でも、maoに「なまあたたかい」と書かれたが、
確かに、私は、冷めてもいなかったつもりだが、まさか熱くもなくて、
到底、卒業式で泣き出すタイプには見えなかったらしい。

億劫がって同窓会にも行かない現在から考えても、意外なことである。

しかしまぁそれだけ高校時代が楽しかったということなのであろう。
下手に斜に構えて、生温かく終わるよりは、きっと素直でよろしい。

あれから4年の歳月を経たわけだが、
なぜか当時よりよほど落ち着きを失くし、
感情の赴くままの生をのらりくらりと歩んでしまっている今である。
退化としか思えないが、こんなに素直でいられるのも今くらいだろうと目を瞑る。

という流れで持ってくると、まるで大学の卒業式で泣くのではないかという勢いだが、
いや、泣くまい。

流石に、芋洗いの体で集わされる卒業式で、泣くこともなかろう。
それこそ生温かな視線で、知るはずもない卒業生代表を見守って終わるだろう。

いい年して、もう人前で泣いたりしませんよ。

いい加減、mixiからブログを切り離そうと思う。
mixiのリンクで読んでいる方で、
もしも今後も私の動向が気になるという方がいらっしゃれば、
早めにブックマークでもしておかれることをおすすめします。

遅くとも、入社式の前までには切り離しておかねば。

人間豹 (江戸川乱歩文庫)』 江戸川 乱歩

下半身は晒されずに済んだ、って、上半身曝されるのも嫌だよ。
しかしこの「食うか食われるか」の処刑方法は、なかなか秀逸だと思う。

明智さんには、「小林くん」「文代さん」と呼んでいて欲しい、
と思うのは私だけだろうか。

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2008年2月28日 (木)

水筒

今日はどうもうれしいことが続いた。

朝からうれしかったことには、部屋を片していたら、
失くしたと思っていた、羊さん手袋が出てきた。
あの、頭の悪そうな、しかしお気に入りの手袋である。

もう2月も終わるという頃になって、やっと出てきてくれた。
うれしすぎて、早速はめて出かけたのだった。

まぁそんなうれしい出来事どもはさておき。

ここ数日、ハワイで買ってきたスタバのご当地タンブラーを使っている。

日本でタンブラーを買おうとすると、大抵トールサイズで、
私が持っていた3つのタンブラーも、トールだったのだが、
ハワイに行ったらグランデからしか置いていなかった。

それで少々買うのをためらったのだが、せっかくだからと結局購入し、
いざ使ってみると、これが案外、勝手がよい。

かさばるかな、と思ったけれど、とりあえず手持ちの鞄には収まってくれるし、
トールだと2杯飲みたいような気がするところが、グランデなら1杯でもいい。

何だ、これならアラスカに行ったときも買ってくるんだったな、と今更思う。
とにかく持ち腐れにならないようでよかった。

沖縄行ったら、またご当地タンブラー買ってこようかな、トールだけれど。
新しく出た横浜ご当地のも、赤レンガで愛らしいから、買ってしまおうか。

というわけでみなさん、どこかへお出かけになった際は、
ご当地タンブラーを私へのお土産にどうぞ。

本当に買ってきてくれたら、代価は払いますけれども。

成吉思汗の秘密』 高木 彬光

面白かったです、ありがとう。

もはや反論を組み立てる気にもならないのだけれど、
しっかり反証も挙げた上で義経=成吉思汗説をまことしやかに唱えていて、
割と公平に書かれている感じが楽しかったなぁ。

終盤、輪廻だの何だの、ただの夢物語に終わりそうで興醒めしたが、
補われた最終章のおかげで最後まで楽しめた。

しかしこんな歴史家はいないだろうなぁ。

肝要なのは、博覧強記であることそれ自体ではなく、、
ものを調べるためのスキルなのだと私は思っている。
アインシュタイン博士も、調べてわかることは覚える必要がないと、
そう言っていた、気が、する。
調べる術を知らなければ、それだけ覚える必要があるということでもある。
まぁ、もちろん、覚えるに越したことはないのだけれども。

あとは仕方のないこととは言え、
東洋史=中国史という書き方がどうも気になったかな。

鎌倉の舞殿で静が詠んだ歌は、私のすきな歌のひとつ。

うっかりお風呂で寝ていたら、思いがけない人から着信があったのを逃していた。
どうもすみません。

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2008年2月25日 (月)

移住

引越すと言えば惜しんでくれる人のいるあたたかさ。

とりたてて頻繁に会っていた人ではないのに、
それどころか、もう何年も会ってもいないような人なのに、
たかだか2時間程度の移転を惜しんでくれる人が、割といて驚く。

曰く、ばったり会うことが、もうない、と。
曰く、会うことが気軽でなくなる、と。
曰く、何となく淋しい、と。

つい数ヶ月前、同じようなことをk一につらつら言ったなぁと思い出す。

どこへ行こうと生きていれば会える、と言う人もいるし、
実際それは間違っていないけれど、でも何か違う。

わざわざ労を買ってまで会うほどではないけれど、会いたいこともあるし、
いつでも会えるという、それだけのことが、
実際には会うわけでなくとも、安心につながることもある。

私は不本意ながらも逃れられず、こうしてネット社会に身を投じており、
会うことのほとんどない友人たちとも関係を保っているが、
でもやはり、違う。

距離はやはり、少なくとも私にとっては、重要だ。

でもまぁ、近いです、引越先は。
車なら1時間て、やる気失くす程に近い。

妖虫 (江戸川乱歩文庫)』 江戸川 乱歩

もう何作も前からわかっていることではあるが、
「がんばる」「けいべつ」という言葉の使い方が、違う。
そういった違いに気付いて、どういう意味で使われているかを、
用例を追って考えていく過程が結構すきなのだが、
そうやって異言語を解釈していった人たちは、本当にすごいねぇ。

畸形児出生割合の変遷が気になる最近である。

「キチガイ地獄」 夢野 久作

あれあれ、あれれれ、と不安になってくるところで、種明かし。
もう少し引っ張られてたら、きっと疑いが消えてしまうから恐ろしい。

久々に林檎を聴いたら、予想以上によかった。
あれ、こんなによかったっけ、という、ね。

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2008年2月 5日 (火)

実際のこと

部屋が寒すぎて、手がかじかんで、内職が進まない。

と書くと、ものすごい生活してるみたいだな、と思ったので、書いてみた。
まぁ、何も嘘は書いていないのだが。

私の部屋は、本当に寒い。
どうして暖房器具を揃えようとしないのか、自分でもよくわからない。
まぁ、家にいる時間が短いから、と言えばそうなのだが。

パソコンは暖をとるのにちょうどよい。

黄金仮面 (江戸川乱歩文庫)』 江戸川 乱歩

やっぱりルパンには不二子ちゃん。
いつも以上に講談調の、さくさく進む語り口が楽しい。
えろぐろもない。

途中、何か面白い台詞があって、おぉこれは、と思ったのに、忘れた。

しかし最初の真珠の事件で、黄金仮面が無様な格好を曝すのは、
ちょっと悲しい。
明智さんのフランス語が「下手」と評されるのも、そりゃ仕方ないけれど、
ちょっと悲しい。

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2008年2月 3日 (日)

去らない

昨日は、ゼミの納会で、追い出される会でもあった。

このゼミでよかった、と心底思いました。
花束などいただいてしまい、恐縮でした。
1次会も2次会も3次会も、文句なく楽しかったです。
アメフトとラグビーが違うということも知りました。

でも、まだまだ古文書室にはお世話になるかと思います。

「無惨」 黒岩 涙香

早く犯人の名を言いなさい、と言われて、言ったら話聞いてくれないから嫌だ、
なんて、笑った。

そもそも会話劇がすきなだけに、とても楽しめた。
語り口もテンポがよくて、気持ちよい。
勘と経験が頼りの中年と、頭でっかちの若輩というベタな構図も、
そして中年の方にも花を持たせてくれるところも、よかったね。

それにしても、刑事巡査つまり探偵の忌まわしい職業たる所以を語る感じが、
世事見聞録を思わせた。

『江川蘭子』
江戸川 乱歩、横溝 正史、甲賀 三郎、大下 宇陀児、夢野 久作、森下 雨村

色が出てるなぁ。
話自体、大して面白くないけれど、まぁそういう楽しみはあるかな。
その程度にしか薦められない本にもかかわらず、
作者のラインナップに惹かれるでしょう、と言って友人にあげる約束をした、本作。

今日は、夜更けにやたらと興奮した友人から電話があり、何かと思えば、
「哲学の本とか、読まれますっけ」

そんな彼の気付いた点があまりに興味深かったため、
またその問いに何ら回答してやれなかった不甲斐なさのため、
そして彼に表紙に落書きしてもらうため、
明日はバイト後、本屋に走ってハイデッガーを買うだろう。

なんて話をしていて、そういえば昔、無駄にニーチェとかサルトルとか読んだけれど、
半分も理解できてなかったよ、と言ったら、
相手もそう言って、当たり前じゃないですか、と笑ったので、安心した。

久々に、哲学系の本にでも浸かろうかなという気になった。
でもきっと、ほとんど意味わからなくて、途中で挫折する。
間違いなく、気分悪くなるもん。

こうしてお金はなくなっていく。

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2008年2月 1日 (金)

夢物語

いっそ、引きこもりたい。

魔術師 (江戸川乱歩文庫)』 江戸川 乱歩

やっと出てきた文代さん。
しかし明智さん、格好いいなぁ。
しかし無理やりだなぁ。

猟奇の果 (江戸川乱歩文庫)』 江戸川 乱歩

どんな偉大な発明も、最初は荒唐無稽と笑われる。
というのは、乱歩がよく言っていることだけれど、彼自身もまたそうなのである。
そしてそれが、来る未来、つまり現代の警鐘となっているのは、言うまでもない。
本作の最後は、そういう意味で印象的。
思想も技術も、行き過ぎはよろしくない。

乱歩作品をこうして立て続けに読んでいて気付くのは、
肉親の情が当然に強く描かれている点。

明智の妻・文代さんにしても、
一部で絶大な人気を博しているであろう、『孤島の鬼』の諸戸道雄にしても、
親を裏切ることについて、相当の葛藤が描かれるし、
数々の殺人においても、肉親殺害はまさか到底ありうべからざること、とされる。
それを逆手に取ったトリックも多いわけだが。

これが現代劇ならば、同情も引かなければトリックにもならない。
こうも面倒な復讐動機にもならない。

乱歩に限らず、私がいわゆる「探偵小説」を好むのは、
捜査手段や科学技術が未熟であるがための曖昧さや強引さに魅力を感じるのと、
それからやっぱり、こういう点があるからなんだろうなぁ。

といって、決して情けばかりがあるわけではなくて。
先のような子どもの洗脳、というのはトリックの上で便利な手段でもあるが、
被差別や不具もまた、当然のように描かれる。
犬神家なんて、家の名前そのまま被差別、というか外部者。

そういう微妙な乾湿がまた、不謹慎な意味は全くないが、面白い。

それにしても、森見登美彦が『夜は短し歩けよ乙女』の中で、
作家や作品の連鎖について触れていたけれど、
と言ってもその件には少々辟易した私だったけれど、
乱歩を読んでいたら、黒岩涙香も読みたくなってきた。
デュマじゃなくて、もちろん探偵小説。

読みたい本は山とあるけれども、いらないことも山とある。
そう、いっそ、引きこもりたい。

壁のポスターやら写真やらをはがした。
途端、淋しくなった。

処分する本を綴じるべく、本棚から追い出した。
途端、淋しくなった。

今日は寝ないとまずい。

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2008年1月29日 (火)

残念なことに

最後の春休み。

テストを終えた。
課題も終えた。
これで春休み。
これが最後の春休みであることを、惜しみつつも切に願う。

内定先に提出する証明写真を撮った。

前々から、自分の顔が左右非対称であることくらいわかっていたが、
しかし改めてまじまじと見てみると、随分と表情が違う。
左半分が、恐ろしく悪人顔をしている。

先日、横溝の文庫本の表紙についてあぁだこうだと言っていたとき、
ふと、その表紙に描かれた女性の顔が、左右で違うと言って、
片方は不幸そうで、片方は悪そうだと言って、
ちょっと騒いだものであったが、ふとそんなことを思い出した。

何にせよ、写真も鏡も、やっぱりすきじゃない。

倭館―鎖国時代の日本人町 (文春新書)』 田代 和生

ちゃんと読んだら、面白かった。
授業踏まえて読んだら、ちゃんと理解できるもんだな。

卒論書いて以来、論文やら研究書の文体を気にするようになったけれど、
本筋とは全く関係ないのだけれど、やっぱり上手だなぁと思ってしまう。
日本語が上手なんだなぁ、言葉が出てくるもんなんだなぁ、と。

対馬藩て、面白いなぁ、滑稽だなぁ。
面白いなぁと思えることを教えていただけて、本当によかった。
でもやっぱり、数字はどうしても苦手。

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2008年1月28日 (月)

内情

引越しに備えて、と、泣く泣く多くの本を手放したはずだったが、
試験期間中に、また増えた。
毎日毎日、本が届く。

まぁ、文庫本ばかりだから、いいか。

本が増えた原因のひとつとしては、最近の言動からも見て取れるだろうが、
いい加減、乱歩全集をコンプリートせねば、と思ったのである。
某姉妹から古い版の、箱入りの、文庫本じゃない春陽堂の全集を借りたから、
大方読んではいるのだけれど、やはり全巻揃えないと気が済まない。

あ、お互いの引越し前に返すね、たくさんたくさん。

とは言え、私が集めている春陽文庫の全集は、
今や大手でもない出版社刊とあって、
どこの本屋でも即座に入手できる、というわけでもない。

私はこれまで、地元のvillage vanguardでこれを揃えてきた。
というか、彼の店以外で見たことがない気がする。

なお、他の書店で注文したところ、出版社の方で欠品です、と言われたことがあり、
それ以来、そもそも置いていない書店に注文することは気が引けてしまう。

やはり光文社版か創元推理版にしておくべきだったか、とたまに思うが、
たとえ入手困難でも、収録順がおかしくとも、解説がなくとも、
あの表紙のためだけに、私は春陽文庫を諦められない。

で、そのありがたき地元のvillage vanguardだが、これがこの2月に閉店する。
あぁ、閉店までに揃えなきゃなぁ、とここ数日思っており、
今日になって、やっと重い腰を上げて、同店を訪れた。

が、閉店に備えて、やたらとフロアを縮小した同店。
早々に、文庫本のコーナーを取っ払っていた。

江戸川乱歩も横溝正史も、夢野久作も、澁澤龍彦も、三島由紀夫も、
寺山修二も、稲垣足穂も、小栗虫太郎も、谷崎潤一郎も、以下諸々も、
消えていた。

まぁ普通に考えて、そこから撤去するよな。

注文すれば確実に来るだろうが、
残る15冊程度を全て注文するのも何だかなぁ、と思い、
結局帰宅して、Amazonに頼るのだった。

どうせ中古で構わないから、こちらの方が安上がりでよいのだけれど、
でもやっぱり、本屋さんで手に取る楽しみがないのは、淋しくもある。
あの、ぱりっぱりのひどい製本の山から、お気に入りを選ぶ、
というのは、春陽文庫にこだわる理由のひとつでもあったのだけれどな。

で、そういうことをしていて、明日のテストに備えて読むべき本を、
いまだ読み終えていないのであった。
結構面白いのだけれど、これを明日までに読み終え、
かつ内容を頭に入れる、なんていうことは、多分無理だと既に諦めている。

それにしても、誰か一緒に乱歩にはまってくれないものかな。

半七捕物帳〈1〉 (光文社時代小説文庫)』 岡本 綺堂

以前に全て捨てたつもりだったものが、思いがけず出てくると、
もう捨てられない。

「お文の魂」
こういう悪どい坊主が出ていた話があったはず、と既視感を覚えるが、
例の如くそれが一体誰のどういう話だったかが思い出せない。
畠中恵だっだっけかな、あったっけかな、そんなん。

「石燈籠」
素敵なのは、「日が短けえ。親分も気が短けえ」です。

「勘平の死」
昔読んだときは、何で常磐津とくると文字清だの文字房だのと「文字」とくるのか、
いや、そもそも常磐津って何だ、
とよくわからなかったけれど、あぁ、そうか、と今にして思う。
しかしその知識を、ここ数年のうちに、一体どこで得たのやら。

乱歩集めたら、あとは父の書棚の歴史物でも漁って春を越すかな。

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2008年1月26日 (土)

もりだくさん

連日連夜、碌々眠らず、ミステリ読んだり笑い転げてたりしたら、
風邪をこじらせた、大したことはないけれども。

それを口実に、試験勉強を放棄している。
その割に、やっぱりミステリは読んでいる。
いい加減にした方がいい。

以下、昨日の話。

先日ここで伊香保の夢二記念館について触れたら、
しおりが東大目の前の夢二美術館なら、と誘ってくれた。
更に東大周辺やら乱歩喫茶やら谷中銀座まで案内してくれるという。
一も二もなくお願いして、昨日はしおりとさおりとデートをしてきた。

はじめて東京大学に行ってきたわけだが、いいところですね。

しかし、田舎の貧乏県立高校出身の我々3人は何ら抵抗を感じないが、
東大生のほとんどは恐らく設備の整ったきれいな私立高校出身なのであって、
彼の大学の校舎には、当初愕然としたのではなかろうか。
少なくとも三田の学舎に慣れていた私は、うわ、と思った、最初。

まぁそんな余計な心配はともかく、
学内のお洒落なレストランで美味しいランチをいただき、
構内をふらふらして、さおりと別れ、しおりと目的の夢二美術館へ。

夢二美術館は、弥生美術館とセットになっていて、
弥生美術館を1階から3階まで鑑賞したのち、
夢二美術館を2階から1階へと下ってスタート地点に戻る、
というルートが設定されている。

当初、私の目的は夢二美術館のみであって、
弥生美術館にはさしたる注意を払っていなかった。
ささっと見ればいいや、くらいに思っていた。

が、見くびってはいけなかった。

弥生美術館で開催中であった、
「生誕120年記念 カリスマ挿絵画家・高畠華宵展
 少女よ、永久にそのよき日を愛せ…」
は、我々ふたりを完全に魅了し、始終大爆笑に至らしめた。

乙女作家のような存在であって、嶽本野ばらに近いとも言える華宵先生。
そしてまた、美少年を侍らせ、半裸や緊縛された美少年をも描いた華宵先生。
あまりのカリスマぶりに、偽者まで現れ、ファンの誘拐沙汰まであった華宵先生。

これに笑わず何に笑おう。

ひとりで百合の世界も薔薇の世界も手がけてしまうなんて、すごいなぁ。
近年のラノベなんて、所詮、華宵先生の焼き写し。

また、当時の乙女たちの実態なども披露されていたのだが、
雑誌のお悩み相談コーナーの非情なことと言ったら。
「足が太くて洋装を着る勇気がありません」とのお悩みに対し、
「太い足が細くなることは難しいようです」と答えるこの冷たさ、笑う。

と、華宵先生と乙女を堪能し、もちろん当初の目的であった夢二も堪能し、
お土産を買って美術館をあとにした。

谷中神社をお参りして、美味しいたい焼きを頬張って、姉さましほりを買って、
「D坂から308歩」の、喫茶・乱歩゜へ。

興奮、でも落ち着く。

思ったより乱歩乱歩している店ではなかったが、
というか乱歩乱歩している店ってどんなだとも思うが、
猫でうめつくされた、ジャズの流れるよい雰囲気のお店だった。
いや、猫でうめつくされた、というのも違うな、種々雑多なもので。

珍しく、コーヒーではなく、おすすめのアップルティーを飲んでまったりした。
店主のお爺ちゃんが、やたらと世話を焼いてくれて愛らしかった。
看板猫に会えなかったのは残念だが、また行きたいな。

谷中銀座でメンチカツを頬張って、日暮里に出て、
東京でしおりと別れ、田町で降りて、大学へ。

研究室でゴディバのチョコをいただいて、20分かけてコピーして、
図書館で人待ちがてら乱歩を読んで、
すっかりそれを忘れていた相手のもとへとゲーセンへ行って、
用事を済ませたところでカラオケに行って、
騒ぎつくしたところでつるのやに行って、食べて、飲んで、笑って、電話して。

電話を受けたmugaくんの気の毒なことと言ったら。
つぁんとsuzuで携帯の取り合いをする、かと思えば、
誰も話さず放置する、ってそんな。
まぁでも、酔っ払いから電話かかってくると、私は微笑ましい気分になります。

ともあれ、wakくんご馳走さま。

そういう盛りだくさんの楽しい昨日であった。
そして食べ過ぎた昨日であった。

偉大なる夢 (江戸川乱歩文庫)』 江戸川 乱歩

タイトルの付け方が秀逸。

戦時下に書かれた、というだけあって、そういう色。
日本国民の芯の強さとか、米兵への典型的鬼畜といった描写。
それでもホワイトハウスの中での会話は、なかなか面白い。

博士の薬瓶をすりかえたトリックだけは、どうも腑に落ちないけれども、まぁいいや。

同時収録の「凶器」で、明智さんが安楽椅子探偵として描かれていたのは、意外。

春陽堂の収録順で言うと、自作自演尽くしのこの頃。

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2008年1月25日 (金)

不吉な予感

寒いおかげで素敵な星月夜であった。

満月は一昨日か、しかし今夜もきれいな月だった。
そういえばクリスマスの頃も月がきれいだと言ったなと思い出せば、
あれから一月経っていたのか。
もう、なのか、まだ、なのかよくわからないけれど、不思議な気分になった。

今日は思い立つままに、つぁんと浅草に行ってきた。
大学自体にさしたる思い入れはないが、あの立地はよいと思う。

仲見世通りで早速人形焼を頬張って、浅草寺にお参り。
気付けばこれが私の初詣であった。

珍しくおみくじなぞ引いてみたら、凶だった。

吉が出ると疑うくせに、凶が出ると無視できない私であった。

蜘蛛男 (江戸川乱歩文庫)』 江戸川 乱歩

結局、昨晩は誘惑に勝てなかった。

このどきどき感はたまらない。
トリック、というか真犯人はすぐわかってしまうけれども、
真犯人が明かされてからは失速するけれども、
最後のいわゆる「えろぐろ」は蛇足だと思うけれども、
それまでのこのどきどき感は、たまらない。

トリックの良し悪しで断ずるなら、江戸川乱歩も横溝正史も、
今読んだら、そうそう言うほどのものでもないと思う。
魅力的なのはそんなところじゃなくて、このどきどき感だと、私は思う。
トリックが見え見えでも、こんなに煽られるって、中々ない。

あとは曖昧さ、だな。

まだ試験は残るけれども、またしても新たな誘惑者が到着した今夜であった。

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2008年1月24日 (木)

囚われたら最後

雪。

雪の降る日の空気がすき。
というのは、雪の恐怖にさらされていないから、言えることだが。

今朝はどう考えたって寒かったのに、
何でかいつもより寒さを感じなくて、よもやまさかと思ったら、
やはり夕方から熱が出てきて、胃も痛い。

何でこれほど繁く、風邪を引くのか。
割と健康的な生活をしているはずなのに。
やはり塾のバイトがよくないのだろうか。

生姜湯でも飲んでさっさと寝よう、と思って帰ってきたのに、
明日のテストに備えてさっさと寝よう、と思って帰ってきたのに、
ひとたび向き合えば、とても寝かせてくれそうにない、
おそろしく蟲惑的な、四対の腕を持った男が私を待っていた。

網を張られたら、もう逃れられっこないのである。

あぁ、開封したら風邪こじらす。
あぁ、開封したら単位落とす。

でも開封しなくても風邪は風邪、単位は落とす。

ということで、乱歩熱、静かに再燃。
やはり多賀新の装画じゃないと。
と熱弁をふるう私だが、改めて全集の表紙を見返すと、素直に気持ち悪いな。

「牛」 岡本 綺堂

卒論を書くので、それなりに江戸の古地図が頭に入ったと思っていたが、
やっぱりさっぱりだ。

お正月の楽しい感じがすごくよいなぁ。
お正月終わっちゃったなぁ。

明日はとうとうルーヴル初日だが、混雑を考えると気が折れる。
しばらく行くのは遠慮しとこう。
大観もロートレックも行きたいし、素敵な展示が目白押しだが、
行くのが面倒、というのは田舎住まいだから。

昔は日本画なんて、さっぱりだったのに、なぁ。

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2008年1月21日 (月)

貸借

昨日、人にお金を貸し、月曜に返すと言われた。
明日、雪が降ったら、彼の人は登校しない気がする。
明日、お金を受け取らなかったら、私は貸したことを忘れる気がする。

と思ったので、備忘も兼ねて、ここに書いておく。

お金を貸して、そのまますっかり忘れることが多くてよくない。
覚えていても、催促できない相手もいるのだけれども。

「江戸川乱歩氏に対する私の感想」 夢野 久作

ただ色々なものを勝手に読んだり、
書いたりするのが楽しみというだけの野生的な利己主義者らしいのです。
批評の標準も持たなければ、説明の形式や術語もわからないのです。
ですから他人の作品をドウ思っているにしても、
それを筆にするという事は出来るだけ差し控えねばならぬ。
結局、自分の恥を曝すに過ぎない。

いやまったく、その通りで。

硝子窓が深夜にワナワナとふるえるようなポーのペンに対して、
眼の球

が白昼にトロトロと流れ落ちるような乱歩氏の筆。
ポーが地上に残したモノスゴイ薬品のにおいに対して、
乱歩氏が生み出すオドロオドロしい黒砂糖の風味。

これはきれいな比喩だなぁ。

乱歩の『白昼夢』を読みたくなった。
読みたい本が多すぎる、早くテスト終えなきゃ。

「有喜世新聞の話」 岡本 綺堂

しっとり。

綺堂とか乱歩とか、読後に「で、答えは?」と問いたくなることもあるけれど、
でもやっぱりわからない方がいいなぁといつも思う。
その曖昧さがいっそ小気味よく、爽やか。

新聞記事の書き方がまた素敵。

それにしても横溝が綺堂を慕ったというのは、意外だな。
F島くんのせいで、横溝が無性に読みたいけれど、我慢我慢。

「絶景万国博覧会」 小栗 虫太郎

描かれるものがいまいちわからないため、どうもしっくりこない。
駄目だな、そういうことを勉強しないと。

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2008年1月14日 (月)

海がまっさおに見えます

試験監督のバイトをしに、小田原の高校に行ってきた。
久々に夜明け前に家を出た、気持ちいい。

教室の窓から海が見えた。

そうか、ここは小田原か。
教室によっては、富士山も見えるのだろうか。

大学から見える夕暮れの東京タワーもすきだけれど、
やっぱり、海原が見える環境って、いいなぁ。
開放感がある。

と思った私は、都会人に程遠い。

しかし母校の窓から見えたのは、耳池と尼の泣き坂。

「朝」 竹久 夢二

伊香保だったら、竹久夢二記念館に行こうと思っていたけれど、
沖縄になったから、海に行こう。

この情景に「太郎」を持ってきておかしくないのが素敵。
「太郎」には春より冬のが似合う気がするけれど、でもおかしくない。

でも私はやっぱり、春は苦手だなぁ。

ヤッターマンがリメイクされいていたなんて、見逃した。
勉強を諦めてyoutubeを見ている数時間後の私が見える。
ポチッとな、とか言いながら、再生をクリックしている私が見える。

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2008年1月10日 (木)

見落し

1年生の頃からの知人の手が、
実はとてもきれいであったことに、今更気付いた。

私としたことが、見落としていたとは口惜しい。

「映画と民族性」 伊丹 万作

芸術とは、民族の生活のうえに咲く花。

理解の難易と、芸術の高低は一致するとは思わないが、
しかし民族性を失って、国際性という言葉に媚びたらそれは、
価値を低めることになるだろうと思う、芸術としては。

とは言え、民族という意識が現代においてどれだけ浸透しているか。

見えているものを深化させる前に、
狭隘と信じてそこからの脱却を図るのは、もったいない。

でも私は製作側ではないから、ただ好みによってものを見ていたい。

結局テスト勉強をしていない、よくない。
でもいいや、今日は早く寝よう。

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2007年12月20日 (木)

棲息地

電話越しのk一が、最近の私の体調不良を案じて言った。
「きみの体じゃないんだから、あまり無理しないように」

いや、私の体だよ。

言い間違いの多い公達の話が描かれていたのは、
何であったか、十訓抄であったろうか。

色々と、ご心配をおかけしたみなさまごめんなさい、ありがとうございます。
早く元気になります。

昨晩は、乱歩を読み始めたら止まらず、結局朝方までかけて読み耽り、
挙句、恐怖の夢を見るに至った。

そういうことをしているから、快復しないだけだろう。

私はなぜか、「背の曲がった恐ろしげな老人」というようなフレーズがあると、
からすのくちばしみたいな大きなとがった鼻を持った、せむしの老人を連想する。
黒ずくめで、杖をついて。
そんな漫画みたいな人は実際にいるわけがないのだが、
恐らくそれこそ漫画ででも読んだのだろう、なぜか常にそういう姿を思い描く。

何の漫画なのか、気になるところではあるが。

とにかく今回も、作中の人物に対し、そういう姿を充てて読んでしまい、
そうやって図像化してしまったものだから、
見事に夢にまでお出ましになったというわけである。

で、そのからすのくちばしのような鼻を持った老人が、
夢の中で延々追いかけてきて、
そのくちばしのような鼻で私の背中をがりがりやって、陥没させて、
私をかたわものにするのであった。

それにしても思うのは、夢の中の老人は、
覚えてないにせよ、恐らく何かの漫画から引かれてきたのであって、
つまり二次元の人なのだが、二次元の誰かと三次元の私が、
なぜ夢では混在できるのか。
夢の中では私もしょせん二次元なのだろうか。

二次元の異性に欲情するということを私は不思議に思っていたが、
しかし夢の中とはいえ、二次元の人物に直接的な攻撃を受け、
恐怖ばかりか痛みまで覚えているのであって、
それを思えば、まぁ強ち無理なことでもないような気もする。

いや、私は三次元に生きる。

孤島の鬼 (江戸川乱歩文庫)』 江戸川 乱歩

2つの殺人の犯人が判明した件で、
あぁもうこういう無理やりが乱歩だなぁと苦笑していたら、
そう無理やりでもなくなってきて、読み応えがあった。

別に無理やりでも構わない。
これだけわくわくさせてもらえれば、もう、それで。

あぁもう、恐いなぁ。

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2007年12月13日 (木)

寝苦しい

風邪、にしては高熱が続き、いつもと違う症状に悩まされている。
インフルエンザ、とは認めたくないが、もしかしたらそうなのかもしれない。
去年も就活中、かかったのになぁ。

昨日は、朝から腹痛を感じていたが、
風邪の初期症状というのは様々あっても、少なくとも私の場合、
腹痛はそれにあたらないので、
悪化するだとか、何か面倒なことを引き起こすだとか、そういう考えには至らなかった。

それで甘く見ていたら、帰る頃には真っ直ぐ立ってもおられず、
電車内でおとなしく座っていることも苦痛なまでの痛みと吐き気を覚え、
道々、途中下車してはトイレに駆け込む、という情けない事態を引き起こした。
天岩戸伝説、再び。

バイトがあったが、幸い暇な文系講師が見つかり、代わってもらうが、
「クマと顔色がひどいですよ」と苦笑される。
笑うどころの事態ではなかったのだが、まぁいい。

早々に帰ろうと思うが、帰途がまたつらい。
最後の小田急ではとうとう力尽きるが、
「体調を崩されたお客様がいたため、電車が少々遅れております」
のアナウンスが頭をよぎり、
安否を気遣ってくれる親切な人々を制止して、最寄り駅まで何とか踏ん張る。
いかにも日本人らしい考え方である。

帰宅すると、もう何もやる気が起きず、
ただ急いで着替えて、水分をたらふくとって、ベッドにダイブ。
するが、寝付けるほど楽でもなく、えづきながら数時間を過ごし、
気付いたら朝になっていた。

そんなわけで、夜にメールをくれた方、返信もせずにすみませんでした。

今日になっても熱が下がらないことを考えると、
母に再三言われるまでもなく、インフルエンザなのかとも思うが、
昨年処方されたタミフルを服用する気にもならない。
10代じゃないけれど、ものすごく熱が下がるのは事実だけれど。

しかし旅行代金の振込と書類の提出の期限は今日なのであって、
倦怠感を抱えながら、車を走らせる。
体調の優れないときは運転を避けましょう、と講習のときに言われたけれど、
それじゃぁ私のような田舎住まいの人間は、どうやって病院に行くんだろう。

夕方には明日のためにつるのやに電話するが、
じいじのあまりに元気な声に圧倒される。
その上、「50名の予約が入っているから、俺じゃわかんねぇよ」と言われ、
再度おにいさんがいるときに電話するよう言われる。
え、50名でしょ、充分入るでしょ、と思うが、大人しく従う。

結果、無事とれましたので、関係者各位。

それでも一日ふとんにくるまってごろごろしていたら、
随分と楽になったので、きっと明日には回復しているはずである。

しかし、こうやって一日寝込んだあとは、
流石に睡眠も足りに足りてしまって、夜になって眠れなくなるからよくない。

「秋の暈」 織田 作之助

最初の一段で、ちょっと笑う。
自分が秋を早く感じ取るのは、もの想う故ではなく、
ただ徹夜ばかりしているからだ、とかいうから。

と思ったら、たいそう素敵な徹夜であった。

やはり人間、季節には敏感にいたいものである。
そういうゆとりが、人間性を保つことなんじゃないかな、どんなに忙しくても。

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2007年12月12日 (水)

戻れない

朝早く起きたら、生活リズムが改善されると思っていたら、
当てが外れた。

それでまた風邪を引いた気がする。
今年の冬は、風邪に憑かれているなぁ。

帰宅して、しょうがをがっつり入れたミルクティーを淹れて、
鷹の爪と酢をがっつり入れた酸辣湯もどきを作ったけれど、
結局寝ないのだから、世話はない。

「異妖編」 岡本 綺堂

先日、司馬遼太郎だいすきF島くんと話していて、
彼の何がいいって、歴史事項を嫌味なく披露してくれるところだ、
というひとつの結論に達した。

いや、他にも魅力は多々あるが、そのうちのひとつ、ということ。

最近は江戸ブームだか何だからしく、
江戸を舞台にした小説はたくさん書かれているけれど、
嫌味なく、不自然さもなく、さらりと知識を披露してくれる作品て、
案外ないような気がしないでもない。
少なくとも私は、下手な薀蓄に興醒めして、現実に引き戻されることがよくある。

そういう点で、岡本綺堂は嫌味も不自然さもなくてすきだ。

ただその欠点は、どこまでが本当でどこからが創作だか気になってしまう点、
説明足らずで意図が汲めない恐れがある点、
いちいち裏をとりたくなってしまう点だろうな。

知識のひけらかしになってしまっている小説って、
職業作家が書く意味がないと思う。

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2007年12月 8日 (土)

ふんぎり

本棚を整理している。

先日、といっても数ヶ月前だが、そのときもそう言って、
結構な冊数を、処分した。

それでも、すきな本だとか、印象深い本だとか、
奥深く眠っているくせに座右の書とか決めていた本だとか、
いつか役に立つと思って絶対役に立たない本だとか、
そういうものはたっぷり残してあった。

が、今度こそ、一切合財、処分しようと思う。

春には引っ越すと思ったら、案外決心がつくもので。
大体、読みたくなったらまた買ったらいいのである。
絶版になっているようなものは、そもそも持っていない。

と言って、読みたくなったときに買っていたら、
以前整理したときには、同じ本が4冊も出てきたわけですけれども。

因みに同じ本、というのは三島由紀夫の『金閣寺』であって、
1冊は父か母の本棚から中学生くらいの頃にかっぱらったもの、
1冊は高校生のときに買ったもの、
1冊は大学生になって他の三島本と装丁を揃えたくて買ったもの、
1冊はタイで『暁の寺』を読んでいたら読みたくなって古本屋で漁ったもの、
の計4冊であった。

とにかく、蔵書なんて、50冊くらいにしたい、と思って、
ふんぎりのつかなかったあれもこれもそれもどれも、
処分するため部室のロッカーに押し込んでいるここ数日。

あぁでも、春陽堂の江戸川乱歩だけは、ほぼ絶版状態だし、捨てられないな。
あぁでも、いくえみ綾だけは、青春だし、捨てられないな。
あぁでも、新潮の谷崎だけは、装丁が変わってしまったし、捨てられないな。
あぁでも、あぁでも、あぁでも、あぁでも…。

…やっぱり50冊は無理かな。
いや、どうにかして捨てよう色々。

「ハイファに戻って」 ガッサン・カナファーニー

そういえばここ数ヶ月、小説を読んで泣くことがなかったが、
久々につーんときてしまった、授業中だったのに。

私がパレスチナ問題に明るくないことが悔やまれるほどに、
よい作品であった。

長いことかけていた写真をはずした後の白い壁について、
本作では「人を不安に陥れる空虚」と描いていたのがちょっと印象的だった。
確か同じく白い壁を比喩として用いて、三島由紀夫だったかな、
とにかく日本人作家が、癇に障る女のことを表していたような気がする。

空虚やそこからくる恐怖としての描き方、
何か引っかかりを覚え、癪なものとしての描き方、
どちらもうまいと思ったけれど、私はどちらかというと後者に共感する。
別にそこに日本とアラブが表現されているというのではないし、
そもそも描かれている文脈が全く違うが、
しかしその差異が単純に印象的であった、ということ。

さて、それで私は一体何に涙を誘われたのかというと、
恐らく、全編を通して語られる、拒絶になのだと思う。

本作は、主人公であるアラブ人夫婦が、
ユダヤ人に奪われた「祖国」へ帰ったときの話だが、
彼らは「祖国」のはずの彼の地にも、血縁上の息子にも、拒絶される。

彼らが確かに知っているはずの、愛しているはずのものに、
失せろ、と突っぱねられる、そういう拒絶だけではなく。

問題は、彼らが確かに知っているはずのものに、
「知らない」と拒絶されることであり、
そしてまた、知っているはずのものが、確実に知らない何かになっていること。
年月と別離が、確実に知らない何かに変えてしまっていること。

そして彼らは「祖国」を失う。

しかし彼らはまた、自分たちが「祖国」を過去にしか見ていなかったことにも気付く。
「祖国」と思って信じ続けていたものは、時空両面での過去のものであって、
しかし彼らの息子、奪われた息子ではなく手元の息子だが、
その世代は「祖国」を未来に見る。
そもそも彼らは過去の「祖国」を知らないから、未来にしか見られないのだが。

といって、この未来にある「祖国」もまた、易々と手に入るものではない。

本作で語られる悲痛さのもう一点は、
そこに武力が介在しないことはないという点である。
武器をとり、祖国のために死ねる同胞をもつことが誇りであり、
何も知らない「祖国」のために命を賭す人々。

主人公の男は語る。
「人間の犯し得る罪の中で最も大きな罪は、たとえ瞬時といえども、
他人の弱さや過ちが彼等の犠牲によって自分の存在の権利を構成し、
自分の間違いと自分の罪とを正当化すると考えることなのです」
そして「祖国」とは、それらすべての罪、悲劇が起こってはならないところなのだと。

そう説きながら、しかし武力以外の方法を見出せない状況に、
自分の思いすらも彼らを拒絶しているのであって、
それがたまらなく痛ましい。

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2007年12月 7日 (金)

下世話な話

こう堂々と書き綴ることでもないだろうが、
しかし私にとっては重要なことであり、女性の多くは共感いただけるだろう話。

下着が、上下揃っていないと、落ち込む。
ちゃんと揃っていないと嫌なのである、せめて色だけでも。

とはいっても、少なくとも私の場合、
下を決めるのは夜、入浴時で、上を決めるのは朝、更衣時で、
大体朝は寝ぼけているから、たまに勘違いすることもある。
で、1日気付かない。

1日を終えて、さてお風呂、というときになって、
初めて揃っていなかったことに気付いて、愕然とする。
あの落胆と、羞恥といったら、ない。

羞恥。
そう、落胆に留まらず、恥すら覚える。

何だろう、ストッキングが伝線してたことに気付いたときに近いかな。
といっても男性には理解できないか。
何だろう、社会の窓を開け放していたことに気付いたときに近いかな。

いや、違う。
ストッキングやファスナーと違って、周囲には知られていないはずである。

何だろう、1日着ていたコートを脱いだら、
クリーニングのタグがついたままだった、そんな感じかな。
いや、その種の恥を、より強くした感じか。

うーん、違うな、どう言うべきだろう。

そもそも、他者が介在しないのに、恥というのだろうか。
私にとってそれは紛れもなく恥なのだが、
こういうとき、他者と同じ感情を同じ言葉で表せているのか、不安になる。

まぁそんな不安はさておき、とにかく、落胆と羞恥の夜であった。

「池袋の怪」 岡本 綺堂

ちょっと古い作品は、読ませ方がきれいなものが多くてすきだが、
本作では「点燈頃」を「ひともしごろ」と読ませているところがいちばんすき。

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2007年12月 6日 (木)

ばちばちばち

静電気がひどい。

髪の毛がばちばちいう季節になってしまった。
怖い音を立てるし、ほわほわしてまとまらないし、かと思ったらはりつくし、
どうにも不快なのだけれど、
それでもワックスとか、整髪料をつけるのはすきじゃない。

やはり髪の毛を切るべきか。
といって、ちょっとやそっと切ったくらいじゃどうにもならないか。

いっそ、アウシュビッツにでも入れられたみたく、刈上げてみたい。
と不謹慎にもそんなことをよく思うが、頭の形もよくないし、
何せしつこい天然パーマだから、きっと伸び始めは目も当てられないと思うと、
やっぱり踏み込めない。

そもそも私の顔は、絶対に坊主が似合わない。
そもそも真っ当な社会生活を営む上で、絶対にやらない。

太くて真っ直ぐで真っ黒でたっぷりの、日本人形みたいな髪の毛になりたい。

「穴」 岡本 綺堂

最初の晩、父君が獣の気配を追うところで、
アラスカの夜の出来事を思い出した。
怖かったなぁ、獣。

それにしても、作中、屋根瓦について記述があったけれど、
もうこの頃は瓦葺だったのだろうか。
旧武家屋敷とは言え、粗末な家だというのに瓦葺。

「吉宗の死後、もとの板葺の家並に戻ってしまった」と言っている私の卒論。

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2007年12月 5日 (水)

確かめる術も知らない

私は割と本を読む方らしい。

らしいと言うのはそうも思っていないからだが、
一般的にはそうらしいので、らしいとしておく。

なぜそう思わないかというと、単純に読む冊数もさることながら、
残る情報の少なさから、とても本を読む方だとは思えない。

本の内容を、読んだ端から忘れていく。

印象に残った場面、描写、雰囲気、イメージ、勝手に思った色、
それに大して何を思ったか、くらいは覚えているのだが、
ストーリから人間関係、果てや結末など、すっかり忘れてしまう。

どんなにすきな本でもそうだし、映画なんかもそうだ。

だから、琴線が甲と乙ほどに違う人とは、
同じ作品について話していても、もしかしたら全くかみ合わずに終わるかもしれない。
因みに私は乙でありたい。

だからとてもじゃないが、私はろくに本を読んだとは言えないと思う。
まぁ、何度も楽しめていいのかもしれないけれど。

というのは以前も書いたような気がするけれど、
そういう性癖のため、ここ数日煩悶を抱えている。

印象的なある場面だけ覚えている作品があって、
その場面だけでも再度読みたい、と思っているのだが、
しかしそれが一体誰の何という本だったのか、思い出せないのである。

というわけで、以下のような場面のあった本をご存知の方、ご一報ください。

性別は覚えていないが、主人公の恋人だか夫だか妻だかが死に、
その骨を、飲んだのか舐めただけなのか、あるいはそれを想像しただけなのか、
とにかくそこで、舌が吸い付くような、張り付くような、と描いた、そういう場面。
大して詩的な作品でもなかったと思うのだけれど。

もはや自分でも何を言っているのかわからないが、
気になっているので、心当たりのある方、いらっしゃいましたら、よろしく。

ホテル・アイリス (幻冬舎文庫)』 小川 洋子

好みじゃない。

が、しかし、場面転換の妙と、想像への入りの滑らかさは素敵。
特に目玉を包むところ、内容こそ苦手だが、すきな描き方である。

ロシア語翻訳、ゴシック建築、きつく巻いたシニヨン、
ワンピースの下のスリップ、皺ひとつない背広、窮屈な靴、
理科準備室に整然とした仕事机、そして失われた舌。
いかにも小川洋子な世界であった。

しかし、舌のない相手とのキスって、どうなのかな。
私は舌のある人の方がいいけれど。

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2007年12月 3日 (月)

着物

久々に、着物を着た。
お正月ぶりかな。

着た、と言うより着せてもらったというべきか。

同年代の人に比べれば、恐らく私は割と着物を着る方で、
ここ数年はお正月くらいしか着ていないけれど、
高校生くらいのころは、母の着付けの練習台というのも含めて、
ことあるごとに着せられていた。
一月に一度は着ていたのではなかろうか。
特に何か、お茶やお花、踊りなどを習っているわけでもなしに。

それだけ着ているのに、私はいまだにひとりで着物を着られない。
浴衣は流石に着られるけれど、着物となると、いまだお太鼓も締められない。

母がちゃちゃっと締めてくれるだけに、何だかとても情けない。

思えば母は、今の私くらいの齢には、着付けこそできなかったらしいけれど、
それでもひとりで着物を仕立てていたし、
比べれば私は、本当に何から何まで、できない女である。

お茶は茶席に招かれない限り、点てられなくとも、作法も知らずとも構わないが、
お花は簡単にでも生けられた方が、日常の上でもハレの席でも華やぐし、
着付けだって、着物を持っている以上、着られたらちょっとした席で便利だ。
もっと実用的な、家事のあれこれについても、そう。

ずっとそう思ってきたけれど、結局、教わらないまま家を出るだろう。
勿論、後にも習おうと思えばいくらでも習えることではあるけれど、
今ならすぐそばに、ただで教えてくれる人がいるというのに。

しかし問題は、母とは着物の趣味が合わないということ。

実に10年ぶりに会った親族は、何だかんだ元気そうで安心した。
石川に行くことがあれば、父の実家に寄ってもいいだろうと、そう思えた。

「麻畑の一夜」 岡本 綺堂

この尻すぼみ加減がいっそ笑える。
あの川をもう少しうまく使えなかったものかな。

しかしこういう感じの怪奇小説はだいすき。

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2007年11月29日 (木)

二度はごめんです

バイトの帰り、横浜からのローカル線で寝ていたら、急に腕をつかまれた。
驚いて目を覚ますが、隣に座っていた見知らぬ男性が、私の腕をとったまま、
ひどく慌てた様子で電車を降りてしまった。
私の腕をとったまま。

何が何だかわからない。

私はどうも、極度に驚くと泣きそうになるらしいのだが、
というのは例えば、
部室で見知らぬ若者たちがゲームをしていたのに遭遇したときだとか、
成田に向かう電車内で突然結構な強さで肩を叩かれたときだとか、
そういうときに泣きそうになっていたのだが、とにかく今日もそうだった。

しかし泣いたところで仕方がないので、
いまだ私の腕をとって、振り向きもせずに改札へ向かう男性に向かって、
何とか声をかけてみた。

すると男性はやっと私のほうを向き、
私に劣らず驚いた顔をして、ようやく動きを止めて、言った。
「え、きみ、だれ」

こちらの台詞である。

お互いどうにか落ち着いて、経緯を振り返ってみると、
どうやら彼は、相当寝ぼけていたらしい。

私と同じく車内で気持ちよく寝ていた彼は、
夢の中で恋人だか友人だかと一緒にいたらしく、
そして気付けば降りるべき駅にいて、夢と現とを判別する間もなく、
夢で隣にいたはずの人を引っつかんで、現実に電車を降りたのであった。

危険な人ではなかったので、とりあえず安心したが、
しかし恐ろしい体験であった。
いやしかし終わってみれば笑える体験であった。
いやしかしあぁこわかった。

おかげで終バスを逃した今夜。

「朝」 太宰 治
(『グッド・バイ』)

suzuじゃないけれど、津島修治への愛が募るぜ。

おでんや小料理屋で飲んだくれているところとか、
何だか数日前の自分たちを思い返して心が痛んだが、
しかしそこがとてもすき。

「私は遊ぶことが何よりも好きなので」と始める彼が愛おしいなぁ。

それにしても、私は作家であれ役者であれ歌手であれ、
誰かにとことんはまるというのがない。

作品として世に出たものにはそれなりにはまるけれども、
作り手そのものにのめりこんで、彼の人の背景まで知ることが、あまりない。

誰か俳優や歌手にのめりこんで、
彼の人の誕生日から生い立ちから、趣味から嗜好まで調べつくして、
舞台や映画、ドラマ、新譜にライブ、と、何から何までチェックして追いかける、
そういう情熱が私にはない。

昔はそういう自分が何かいけないものだと思って、
なぜか「ファンであるため」に、わざわざ情報収集に熱心になってみたりしたのだが、
やはり続かなかったものである。

そういえば私は、例えば恋人との付き合い始めとか、
そういうあらゆる記念も覚えない人間だが、
もしやそれも、人にはまらない性質と関係あるのだろうか。

それでも例えば人の誕生日とか、そういうものを祝うのはすきだし、
人に興味がないわけでは全くないのだけれど、
誰か特定のひとりやふたりに特化して、熱狂的にのめりこむということがない。

みんなすき、は、誰もすきじゃない、とかありきたりな言い回しがあるが、
それもわからないでもない。

結局、どれだけ知りたくても知り得ないからのめりこまないし、
そのために手放せないものが多すぎるからのめりこまない。

そういう私は、林檎の「月に負け犬」の歌詞がすきである。
逐一新譜を追うことはしないけれど、林檎はすき。

「蝋燭をつけてくれたら、飲んでもいい」
と言う、本作の主人公も、すき。

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2007年11月15日 (木)

ざりざり

最近のお気に入りは、赤いパンプス。

私の靴にしては踵が低い。
母には頭の悪そうな靴と言われる。
しかし履き心地があまりに楽なので、最近はこればかり履いている。

さてしかし、お気に入りのこのパンプスにも近頃多少の問題がある。

確かに私は、この靴で浜辺を歩いた。
その靴でS田の車に乗るには忍びないと、懸命にはたいたけれど、
はたいてもはたいてもさしたる効果を表さなかった。
しかしそれも、もう10日以上も前のことである。

にもかかわらず、いまだに靴から砂が染み出る。

何も四六時中ざらざらと出てくるのではなく、
ふとしたときに、縫い合わせた目から、にじりにじりと染み出してくる。
そう、染み出す、『砂の女』状態。

あぁもう。

と言いながら、あまりに楽なので、気に入っているので、しっかり履きます。

しかし秋のはじめに東横をジャックしていたCOACHの中吊りで、
先丸ぺたんこパンプスに、カラーハイソ、ミニスカート、
の合わせに惚れたのだけれど、いざ私がやってみたところで、
所詮ずんぐりむっくりにはあの素敵さは出せないと実感した。

銀の匙 (岩波文庫)』 中 勘助

とても気に入った。

作者のナルシシズムを感じないでもないが、
それでもこの繊細な描写は、さらさらとして気持ちよい。

いたるところで切なくなるなぁ。

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2007年11月10日 (土)

変わんないな

久しぶりの友人を囲んで、飲んだ。
彼女と飲むなんて、2年以上ご無沙汰していたはずだが、
誰も何も変わっていなかった。

久々に会って、変わっていない、と言われるのは、多分よいことだと思う。
もちろん、成長していないという意味もなくはないだろうが、成長と変化は違う。

わざわざ時間を経てまでして会う、ということは、
それなりに好意を持っていたということである。
そうれなければ何も今更会いたいとも思うまい。

とくれば、変わっていない、というのは、
時間を経ても、好ましく思える、ということであろうから、
多分、よいことだと思う。

先日、高校時代の友人たちを夜中の海に繰り出したときも、
maoと私はしきりに、みんな変わっていない、と言っていたが、
少なくとも私はそういう意味で言っていた。

S田はしきりに、いや、俺は変わったと思う、と言っており、
確かに彼は高校時代よりよほど成長したと思ったが、
しかし根本的には変わっていなくて、だから安心したし、好ましかった。

もちろん、変化が好ましくないわけではないし、
変化の果てがより好ましいこともしばしばあるけれど、
しかし変わらないことは、悪いことではない。

来年の今頃も、変わっていない、と言い合っていたい。

「ソリチュード」 山本 文緒

やはり親にはなりたくないし、なれないなぁ。
でも主人公が、父親としての感覚を意識したところは、すきだなぁ。

「濡れたおんなの慕情」 川上 弘美

タイトルに笑う。
よくわからないけれど、まさに「ああもう」という気分。
悪くないな、という。
そして彼らも言う、「変わんないな」と。

あとは、金原ひとみはやはりすきじゃないな、というのが、
とりあえず今日の感想。

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2007年11月 5日 (月)

ああ厭はしき世の中なり

何か、いわゆる「女性らしいこと」をして褒められたり、
何か、いわゆる「女性らしいところ」を指摘されたり、
あるいは何か、私の挙動に対し、単に返答に窮するようなコメントをいただいたり、
そういうときに私はよく、「婦女子のたしなみですから」と言う気がする。

半分照れ隠し、半分困惑隠し。

しかし「ふじょし」という音を「婦女子」と変換してくれない人が多い。
書かずとも知れたことだが、「腐女子」と変換してしまうわけだ。

確かに新鮮でもないと思うが、どこかしらが腐りかけてはいると思うが、
しかし私は「腐女子」ではないはずである。
むしろ「腐女子」と変換してしまうその相手の頭こそが、
腐っているのだ、きっと。

まぁ「腐女子」の定義などわからないけれど。

「紫陽花」 泉 鏡花

氷と汗、水の描き方が美しすぎる。
あぁ本当、畑芋之助なんてペンネームを早々に捨ててくれてよかった。

「印度の古話」 幸田 露伴

三本、じゃなくて二本の矢と姥捨て山。
それにしても老父を棄てたと見せかけるため、
地下に部屋を作るというのは興味深い。
なぜ、地下。

以前に東南アジアの昔話もいくつか読んだけれど、
どこも言わんとする教訓は似通っていて、
それでも少しずつ色が違うのが、面白いなぁと思う。

何もかもがどこでもひとしなみになってしまってきているけれど、
そういう色を大切にすべきだと思うなぁ。

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2007年11月 4日 (日)

眠りに落ちたい

久しぶりに、というか1ヶ月半ぶりかな、
サークルのOG・kさんに誘われて、OB・OGのみなさんと飲んできた。

幸せ。

そんな、OB・F塚さんの望むような「おねえちゃん」には決してなれない、
根っからの妹・年下気質の私であった。

さて、次は学祭かな。
インド人になるべく痩せなければ…。

「悪妻論」 坂口 安吾

やはり恋愛はこうでありたいし、
夫婦となると安定を求めたいものだけれど、それでも、
ただ従順なだけでは、女としても、男としても、つまらない、よねぇ。

そう思ってくれる相手なら、結婚なんて、そう簡単に求めない、はず、よねぇ。

安吾の文体の愛おしいことといったら、ない。

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2007年11月 1日 (木)

長短

安心でもないけれど、ジンジャーエールも買わないけれど、
しかし東京タワーから続く道にははしゃぐけれども、
とにかく旅に出てきました、台湾。

目当てはといえば、故宮博物館。
当初は本当に、最低限そこにさえ行ければ何でもよかったけれど、
しかし終えてみれば、やはり友人たちと馬鹿みたいな話をして笑ったのが、
結局はいちばんの思い出となるのかもしれない。

そんな笑い話の中で学んだ言葉。
「合サー」
初めて耳にしました。

肝心の故宮博物館は、思っていた以上に素晴らしかった。
何せ日本に比べて大雑把なお国柄、というか地域柄なので、
きっと博物館も、展示品はともかく、そこまで立派なものでもなかろう、
と軽く見ていたのは、大いなる間違いであった。

特に中国のイスラム文化のコーナーは、私好みのものがたくさんあって、
あぁもうここに住みたい、と本気で思った。
実際、私はあのような立派なものに囲まれて、
なおかつそれを実用できるような余裕のある生活に憧れる。

芸術でも文化でも、そういったものは結局、無駄なものだと思っている。
この場合の無駄、というのは不用ではなく不要という意味だが、
いずれにせよ、最低限の生活にはおよそ必要のないものである。
しかしそれをいかに生活に溶け込ませるか。
それこそが余裕であり、洗練であり、力であり、粋なのである、
と私は思っているのである。

それは置いておくにしても、とにかく博物館には感嘆しか漏れない。
300円程度であれだけ楽しめるなんて、もう、たまらない。

お寺も問屋も何もかも、存分に楽しんだけれど、
しかし台湾は、日本とそう変わらなかった。
至るところで日本語に遭遇できるし、においも雰囲気も何もかも、
日本と大して変わらなかった。

もちろん、食事は違うし、日常語も違うし、人の格好も何となく違ったけれど、
それでも非常に近くて、それが残念といえば残念でもあった。

成田に帰ってきたとき、他国からの帰国であれば、
大抵は何らかの感興を催すものだが、
今回に限っては、何の気も起きず、ただ帰宅の道のりを面倒に思った。
あぁここは数時間前までとは違う、と最も思ったのは、
帰宅して、髪の毛を洗っているとき、いつものシャンプーの香りをかいだときだった。

それにしても、台北から成田までより、成田から自宅の方が、
よほど時間がかかってしまうというのは、どうにも悲しい話である。

まぁかように近いところで、雰囲気も近いところで、
治安もよくて、他国に比べて清潔で、そんな台湾ならば、
いつか母を連れて行ってやってもよいかもしれない。
そう思った。

アラビアの夜の種族〈1〉 (角川文庫)』 古川 日出男
アラビアの夜の種族〈2〉 (角川文庫)』 古川 日出男
アラビアの夜の種族〈3〉 (角川文庫)』 古川 日出男

アラブの授業で、このあたりの歴史に触れたので、久々に読んだ。

何だかんだ、この勢いはすごい。
ついつい一気に読んでしまう。
何だか近頃話題になる本というのは、そういうエネルギには満ちている気がする。
だからといって、それが素晴らしいとも思わないけれど、
しかしやはり、どうせなら楽しく、ついつい読み耽ってしまうものが、いい。

それにしたって、最後の方はひどいなぁ。

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2007年10月26日 (金)

不信者でもない

昨晩、mameちゃんとジョシツキーくんと、
結果的にヤマもオチもイミもなかった話をしていたら、
案の定1限に間に合わず、元気でもなかったので、
往復4時間もかかるくせに、5限しか、たった90分の講義しか、
それしか聴かずに今日の授業は終わった。

しかしその90分は興味深かったのでよしとする。

さてその講義で、ある作家のひとことが面白かった。

ある作家、とは、ナギーブ・マフフーズ。
アラブ圏初のノーベル文学賞受賞者であり、
先日私が絶賛していた『バイナル・カスライン』の著者である。

しかして彼曰く、「人は新聞のようにしか小説を読めない」と。

エジプト人の彼は、れっきとしたムスリムであり、信仰も決して伊達ではない。
そんな彼だが、ある著作でもって宗教的冒涜者として批判を受ける。

問題の作品は宗教世界をベースにした寓話で、
神にあたる父がおり、アダムとイヴにあたる背徳の子どもがおり、
と続いて、子々孫々にイエスとモーセとムハンマドが生まれ、
更に科学にあたる子どもが生まれ、最終的に科学が神を殺す、というもの。

この作品が宗教界の反発を買った際、彼は先のように嘆いたのだった。

さて、新聞のように、とはどういうことか。
彼の言う新聞とは主張の場である。
新聞上の言葉とは、即ち著者の本意の主張である。

しかし小説は新聞ではない。
何も小説として書いたものが、そのまま彼の主張というわけではない。
科学が神を殺す、という寓話は、世界を俯瞰して書いたものではあるけれど、
しかしそれが彼の主張というわけではない。

彼の言動からは、彼が敬虔なムスリムであることがよくわかるだけに、
この発言は彼の本意であろう。

小説は新聞ではない。
小説は事実である必要はない。
小説に描かれたメッセージは必ずしも著者の思いというわけではない。

これは私が昔から、それこそ小学生の頃から思っていたことであって、
彼の言葉は私にとってどれほどすっきりするものであったことか。
国語の授業中、現代文の授業中、文学の授業中、
教師の言うことに、
それ本当かよ、そんなこと実は思ってなかったかもしれないじゃないか、
と思い続けてきた私にとって、どれほどすっきりするものであったことか。

という積年の苛立ちの解消はともかくとして、
作家と作品の同一視は危険だということを、
作家自身の言葉に見出せて、そういう点で面白いと思ったのだった。

という、備忘。

「老人」 ライナー・マリア・リルケ

「ゴチツク形の指」というのが、いいなぁ。
ほほえましい終わり方で満足。

明日はチェコ映画祭に行くので、リルケでチェコ予習。
というわけではまったくない。

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2007年10月20日 (土)

お言葉を賜る

熱も下がって、どうにか、快復、復活。

月曜、H先生の古文書の授業で寒い寒いと震え続け、ゼミ教授の講義を休み、
水曜、連絡せずに、正確には連絡したが間に合わず、ゼミを休み、
肩身の狭い思いでゼミのバイトに出頭したところ、
両先生から労りのお言葉をいただき、ちょっとほろりとした金曜であった。

やさしいなぁ。

『新潮現代文学 78』

「家」 筒井 康隆

途中まで、非常に面白かったのだが、結局よくわからない。
答えが読めない。

「新宿コンフィデンシャル」 筒井 康隆

よい循環。

「ヤマザキ」 筒井 康隆

織豊時代は全く詳しくないけれど、だからこそ楽しめた。
ところどころ史料を持ち出してくるところがにくい。

「乗越駅の刑罰」 筒井 康隆

日々、罪を犯しながら生きているわけで、
だからたまに泣きたくもなるわけです、冗談と知りつつ。

作品集、それも割と短編の多いものだったから、
授業のお供に、と朝のうちに借りて、
夕方には取寄せた本を受け取るために返さなければならなかった。
「乗越駅の刑罰」は、時間の関係で読もうか読むまいか迷ったけれど、
読んでよかったなぁと、最も強く思った一作。

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2007年10月18日 (木)

人に頼って生きてます

カタルシス、浄化、瀉血、吐瀉。
というと、思い浮かぶのは2つの解釈である。

ひとつは、他人ないし何らかの作品中の悲劇に自身を重ね合わせることで、
自らの抑圧された激情を解放する、というアリストテレス的解釈。

もうひとつは、催眠術のような暗示によって、
自己の抑圧された激情や、タブーとなる体験を解放する、というフロイト的解釈。

…詳しくはないので、間違っていたら恥ずかしいけれど、
とりあえず私の考える「カタルシス」とは、以上の2つの意味であった。
いずれにせよ、あまり意識していないマイナスの感情を、
外的要因によってではあるけれど、自分から吐き出して、すっきりすること。

しかし最近、新たに思ったのは、
自身が感情を無意識に抑圧しているであろう体験に対して、
自身ではなく、他者が憤りや悲しみを表してくれることも、
大きな浄化作用なのかもしれない、ということ。

お世辞にも楽しいとは言えない自身の体験に、
あまりマイナスの感情を抱いていなかったところ、
しかしそれに対して私より友人が憤っているのを見て、
別にそれに触発されて今更私が憤りを覚えることは全くなかったが、
つまり私自身が吐き出すことはなかったが、何となくすっきりしたのであった。

排出口は、自他の違いがあるけれど、
他者を介して悪感情という毒を吐き出すという意味では、同じかと思った。

「日本三文オペラ」 武田 麟太郎
(『昭和文学全集〈第13巻〉』)

こういう群像劇はすきだなぁ。
右から左へ、ただとうとうと流れていく感じ。
終わり方も、ありきたりかもしれないけれど、あっさりしていてすきだなぁ。

砂の女』 安部 公房

後輩が本作のレビューを書いていて、読みたくなった。
いや、別に彼の書いた内容に触発されたのではなく、
単純に、題名を聞いて、久々に読みたくなっただけなのだけれど。

しかし病床に読み返すには、面白すぎて、向かなかった。
つい読みふけってしまって、結果、目も体も疲れた。

夢の記録をつけていた、というのは清さまだけでなく、
確か安部公房もそうだったような気がするけれど、
それもうなずけてしまうのが、彼の作品だと思う。

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2007年10月14日 (日)

らしくない

月末、台湾にいってきます、ハローキティジェットで。

つい昨日、航空会社と便が確定し、
機内食は出るだろうかとかたかた検索してみたところ、
件の便が、ハローキティジェットであることが判明した。

ハローキティジェット。

機体の塗装だけでなく、機内の壁紙、搭乗券、機内食の什器、アテンダント、
果てやトイレットペーパーやエチケット袋に至るまで、
リボンをつけた輪郭線の太い、こじゃれた猫一色。

なんとまぁ、私に似つかわしくない。

とりたててキティちゃんがすきなわけではなく、
むしろどちらかというと、避けるべきキャラクタなのだが、
しかしここまで徹底してくれると、楽しみでならない。

手袋をした、本来の不潔さとは縁遠いあの黒いねずみなどすきでもないのに、
アンバサダーホテルに泊まってみたいのと、きっと同じだ。

今回はちゃんとデジカメを持っていこう。

「木の都」 織田 作之助
(『昭和文学全集〈第13巻〉』)

杜の都、は仙台。
これは大阪。

女の子は女学校ぐらい出て置かぬと嫁に行く時肩身の狭いこともあろう、
しかし男の子は学問がなくても働くことさえ知っておれば、
立派に世間へ通るし人の役に立つ、
というところが、印象的であった。

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2007年10月13日 (土)

弁解の仕様はあるまいよ

秋学期が始まって、金曜日は3回目である。

1回目、春はなかった2限の授業をすっかり忘れる。
2回目、2限に出るも、少なく見積もっても60分は睡眠をとる。
3回目、2回目同様2限を寝て過ごし、4限は休講だと決め付ける。

まぁどちらも、仮に落としたとしても、卒業には関係ありません。
卒業単位が足りているかどうか、いまだに怖くて確認できません。
足りてなくても、もうどうにもなりません。

「勧善懲悪」 織田 作之助
(『昭和文学全集〈第13巻〉』)

「じたばたするのは、臆病だ。」
いやはや、まったくもって、然り。

落ちは大方読めるのだけれど、それでも最後が憎めない。

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2007年10月12日 (金)

碌々耳にはいらなかった

春に、「文学、すきなんですよね」と言われ、まごついた。

本を読むのがすきかと問われたら、肯定で返すところだが、
文学って、何だよ、と思ってまごついたのだった。
一体何を聞きたかったのか、いまだにはっきりとはわからない。
質問者に非はないが、しかし質問に欠陥がある。

後に冷静に思い返してみても、やはり困る質問だと思うが、
しかし改めて同じように問われたら、否定で返すような気がする。

作品を、研究対象として捉えるのって、疲れるんじゃないかな。

作品を、いわば叩き台にして、その先・奥にあるものを論じるより、
単純に面白いか面白くないか、すきか嫌いか、
どこがどうしてそうなのか、くらいを、素直に思うくらいで私は満腹なのだ。
3年前、文学より史学を取ってしまったのは、そういう理由もあってのことなのだ。

だから拙い感想は書けても、reviewもessayも書けない。
読む本の傾向から、「文学ずき」などという誤った烙印を押してはいけない。

というのは、冒頭の質問者を責めているのでは全くなく、
件の烙印でからかわれるのがいかに恥ずかしいか、という陳情であります。

ね、頼むよ、本当。

「放浪」 織田 作之助
(『昭和文学全集〈第13巻〉』)

昨日読んだ森見氏のおかげで、織田作之助を読みたくなって、借りてきた。
なるほど確かに、本というのは、何かしらのつながりがあるものだ。

お金の減っていくのを数えるのと、放浪とがいいリズムになっているなと思う。

思えば就職活動中、愛読書を聞かれる機会がそれなりにあったが、
織田作之助の「世相」と答えたことが、幾度かあった。
「世相」にしても本作にしてもそうだけれど、
なぜか読んでいて、あぁもう、ぎりぎりだなぁ、と思って、無性に泣きたくなる。

兄の死後、兄の養家に文句を言ってやろうと思うのに、
気付いたらすごすご帰ってきてしまっているところとか、すきだなぁ。
そして自身の婿入り先から出奔しようというときの、
弱々しさ、情けなさも、すきだなぁ。

でもやっぱり、ぎりぎりでもどうにか生きようとするところがよくて、
太宰治の、一寸先が闇であっても、それでも手探りで何とか進んでいく、
といった言葉を思い出したのだった。

ぽかぽかぺんぺんうらうらうら、の語感は、最高。

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2007年10月11日 (木)

どこで誰がどう思ってるか

通学途中、中年女性2人の会話に、勝手ながら落ち込んだ。

朝も早くの電車ならば、誰もが無言で乗っているものだけれど、
10時くらいの電車だと、おしゃべりをする人もいて、
しかしやはり多くの人は無言だから、どうもその会話が筒抜けになる。
今朝も、そういう状態だった。

どうも片方の女性の息子夫婦に、コウノトリが飛来しないという話らしい。
それで両人が話すことには、
跡取りも作れないなんて、嫁も役立たずだ、と。

あぁ、いまだにこんな発想が当たり前にあるなんて。
いや、他にも反応すべき点は多々あって、
他人事ながら、人知れず落ち込んだのであった。

そういう親の元に生まれなくて、よかったなぁ。

夜は短し歩けよ乙女』 森見 登美彦

迂遠。
と、思って読んでいたら、半ばからこの単語がよく目に付くようになり、笑った。

『図書館戦争』と変わらないな、というのが単純な感想。
これが本屋大賞の構図なのか、やはりラノベに近い。
この分だと万城目氏も似たようなものかな。

しかしこの饒舌な語り口調から、涼宮ハルヒを思った私も、
この路線の人間なのだろうか。
3話しか見ていないわけですけれど。

しかしこういう種類の本は、勢いがあって、一気に読ませるなぁ。
学校帰りに読み始めて、バイト中にも気になって、すぐ読んでしまった。
コトちゃん、どうもありがとう。

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2007年10月 8日 (月)

暖くなりかけたお鍋の蓋

食欲がなくとも、きちんと三食とるようにしている。
時間と体調が許せば。

今晩は、あまり食欲がなかったが、
そういうわけで何か食べようと思って台所に立った。

私は、英国人を嗤えないくらいに、一度気に入るとそればかり作る質だが、
現在は野菜をトマトでとろとろ煮て、後に強火で水分をとばす、
というごく簡単で、かつ、お弁当にも入れられるものが気に入っている。

因みに、油不使用。
トマトが野菜の味を逃がさないので、炒めずともよい。

特に何かを欲するというほどの食欲もなかったので、
今晩もそれを作って夕食にしようと思い、
にんじんとかぼちゃとたまねぎとピーマンを小さく切って、
肝心のトマトをぶつ切りにして、
ぜんぶいっぺんに鍋にぶち込み、
塩とこしょうと鷹の爪と、少しの砂糖と酢を入れて、
ふたをして弱火にかけて、しばし放っておいた。

放っておくうちに、ふと思い出すことがあった。

バイト先ではやはりトマトベースのスープを出しており、
フォカッチャとセットになっているのだが、
そのごく普通のセットに飽きたとあるバイト仲間は、
わざわざ自宅から、白米のおにぎりを持ってきて、
件のスープをかけて温め、リゾットを作っていた。

あ、リゾット。

途端、食欲は湧かないくせに、似非リゾットをつくりたくなった。
ちょうど野菜は小さく切ってあるし、
水分を足せば、このままできなくもないはずである。
と思って、水を加え、トマトももうひとつ加え、冷蔵庫の冷ご飯を加え、
またふたをして、弱火にかけたまま、放置した。

問題は、このご飯の量であった。

さほどお腹を空かせているわけでもあるまいし、
まぁ普通に茶碗に盛った半分くらいだろう、と考えて、
よく考えずにこれまたぶち込んだのだが、
水分の中に、既炊の米を入れるのである。
つまり、炊かれた普通のご飯よりも、よほど膨らむのである。

そろそろご飯も温まっただろうと、ふたをあけてみると、
膨張してひとつの固形物のようになった中身が姿を現した。

まぁ味はそれなりに普通だったし、
やや水分は少ないものの、確かにリゾットだったと思うが、
いかんせん、量が多かった。
水分で膨張しているだけとは言え、存在感が強すぎた。
結局、明朝にでもと思って、半分ほど冷蔵庫に入れたのであった。

食欲に反して、調理欲に従ってはいけない。

〓東(ぼくとう)綺譚 (岩波文庫)』 永井 荷風

某大学の文学部生のくせに、大して彼の作品を読んでいなかったので、
お借りしました、ありがとう。
まぁ、お札の彼の著作も、大して読んでいませんけれど。

内容への感想以前に、ずっと「ぼくとうきたん」だと思っていたのですが、
正しくは、「ぼくとうきだん」だったんですね。
これまで当たり前に「きたん」と発音してきたことを、恥じています。

以下、内容について、備忘録。

ストーリそのものは、大きな起伏もなく、ごく淡々と進んでいって、
それがあまりにゆるやかで、緩慢で、
観てはいないが、映画版は退屈なんじゃないだろうかと思ってしまった。

私としては、これはこれで、割と好みだけれど。
特に終盤、真情を伝えようと意を決して女の元に行くところは、
そのシーンも、そして彼の真情そのものも、よいなぁと思う。

しかし小説として読んで退屈を覚えなかったのは、
話の流れ以外のところで受けるものが大きかったからだと思う。

時代の奔流の中での、
急速な近代化、日本・西洋双方に誤った西洋化への不満、
日本の喪失への危惧。

多くの近代人が描いてきたことが、ここでもやはり描かれている。
ただそれがストーリの中に色濃く、しかし象徴的に描かれると、
私は少し、食傷気味になってしまうのだが、
本作はそうではなく、話の流れとともに、やはり淡々と吐露される。

有名どころでは、小説で言えば漱石、学問で言えば常一も指摘しているけれど、
西洋スタイルの導入が、優越への欲望をもたらして、
コミュニティを破壊して、人々から「人間味」を奪いつつある。

失われていく古きよき時代を懐かしみ嘆くだけのものならば、
それは単に老人の癪な昔語りなのだけれど、
しかしいくらかの近代作家の危惧したことは、
現代になって、社会問題として顕現しているのだから、癪とも言えない。

かつ、彼らの場合、実際に欧米を見聞してきているのだから、
蛙の美化された祖国賛美というのでもない。
これは以前にも何かを読んで思ったことだけれど、
こうした流れの上に、伊丹十三はあるんだろうな。
日本人としての確固たるアイデンティティ、自信を持てという。
本作の、アイスコーヒーの件に、つい伊丹を思い出したのだった。

非西洋社会の近代化とは、即ち西洋規準の導入を指すことが多い。
何もそれが悪いわけではなく、よいことも確実にもたらしている。
ただ惜しまれるのは、やはり日本的道徳・価値観の喪失である。
問題は、ハウスレスではなく、ホームレスなのだと思う。

まぁ、ありきたりの提言ではあるけれど、
前述のアイスコーヒーの件だとか、
現代、つまり当時の道徳を矯正するには生活を不便にすることだとか、
そういうところに、私の知るものとのリンクを覚えて、面白いと思った。

それから面白かったのは、三田批判だろうか。
年に二回、野球見物帰りの銀座通り襲撃。
文学をも野球と同一視して稲門と競いたがる経営陣。
ここにも優越への欲望、が表れているわけだが。
独立自尊を掲げる三田の学府への言及は、まったくそれに反していて、
そして我が身を思って、嗤った。

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2007年10月 5日 (金)

どれだけ大切かって

古川日出男の『アラビアの夜の種族』を読んだとき、
前提として少し違和感を覚えたのが、
作品の中で、書物というものが宝のように扱われている点だった。

千夜一夜よろしく、内容だけでなく、装丁も文字も、
素晴らしい書物を送ることで、敵を撒こうなんて、そんな無茶な、と思った。

しかしイスラム圏においては、強ち無茶でもないのだろうか、
と最近考えを改めつつある。

トプカプ宮殿の至宝展。
ここで展示されていた、コーランに始まる書物や文書の美しさには、
書物として以上に、美術品として価値があると、驚いた。

そういえば、今年度、趣味で履修している東洋史の授業は、
アラブ文学の授業なのだけれど、
この授業で先生が見せてくれたコーランや、アラビア語の原書たちは、
どれも装丁がしっかりしていて、非常に美しい。

私が惚れ込んだ、paper blanksのノート達が、
そのまま本になった、それがアラブの本なのだ。

経典であるコーランが書物の形態をとるから、
ムスリムは書物を非常に大事にするのだとか。

最近、件の授業のために読んでいるアラブ文学の中では、
アラブ人たちが頻繁に激昂する様子が描かれているが、
確かに憤懣の中でも、彼らは決して手にしていた書物を投げたりしない。

まぁそんなアラブの本の翻訳本は、
味気のない白いハードカバーに、黄ばんだ紙が綴じられているわけだけれど。
そして読者である私も、お風呂で読んだりしているわけだけれど。

懐と携帯を思って、文庫本ばかり渉猟し、
かつすぐに処分してしまう性癖を、少し改めようかとも思った。

と思わずとも、文庫本を読む暇は、そろそろ消えるかな。

バイナル・カスライン 下』 ナギーブ・マフフーズ

上下巻あわせて、非常に面白かった。

それが主題では全くないけれど、ジェンダー論のすきな人には、
ぜひ読んでいただきたいと思う作品。

舞台が舞台だから、当然女性の地位は低く、制約も多く、
夫婦など主人と靴、挿入するものとされるものである点でこの比喩は秀逸だが、
支配者と被支配者、どころか盲目的服従者として描かれているけれど、
それが決して不幸であるとは、一概に言えない。

私にはこの一家の母になることは、天変地異が起ころうと無理な話だし、
精一杯拒絶したいものであるが、
しかしなれないがために、ある種、憧れ、ではないが、
敬意のようなものを抱いてしまわないでもない。

いずれにせよ、私が結婚したくないと思う理由が、よく書き表されている。
というか、男性が、どのキャラクタもうまく描かれていると思う。
特にヤーシーンの語る審美の点において、私はひどく納得したわけである。
私が男性を嫌うことはないが、しかし彼らに結婚を求めないのは、
極端な例とはいえ、男性とは少なからずこうであり、
またそれを全く否定しないが、しかし逆に哀れむ気持ちがあるためだと思う。

まぁそんなことを抜きにしても、面白かったな。
文体のぶれは大きいけれど、エピソードは多かったけれど、
新聞小説か何かなのだろうから、そう思えば気にならない。
キャラクタも魅力的だったし。

「太陽を気にする人もいない。
これがエジプトだ。」

あぁ、そろそろ本分に目を向けなければ。

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2007年9月29日 (土)

海の民

回らないお寿司を、カウンターで食べてしまった。

いまだ、魚をさばけない。
恐らく母ができないからだが、しかし亡き祖父は上手に魚をさばいていた、らしい。

そういえば、兄や私がまだ小さかった頃、
祖父は自らさばいた何種もの魚を並べて、
孫たちを前にお寿司やさんを開店させていたとか言うから、
人に、つまり娘にやらせないくらい、そういうことがすきだったんだろうなぁ。

私の記憶にないくらい、昔の話ではあるが。
というかそんな幼い私が、刺身を食べられたのか、疑問ではあるが。

という話を、連れにしていたら、
連れはさばけるのだと、あっさり言われてしまった。
何てことだ、うらやましい。

しかし教わる機会は、恐らく一生ないだろう。

大旅行記〈7〉』 イブン・バットゥータ

中国は、すごいらしい。

昨晩、本でも映画でも絵画でも、そういう芸術の受け取り方について話したが、
私は、とりあえず初めて触れるときには、
あまり考えこまずに、感じるままに受け取ることにしている。

まぁ、単に頭がよろしくないので、考えながら見ると疲れるからなのだが。

が、しかし、芸術とは別に、学問をしようと思ったら、そうはいかない。
考えながら、咀嚼しながら、いちいち味を確かめながら、素材を吟味しながら、
自分なりの形を意識して、受け取らなければいけない。

というわけで、まぁ本書は芸術ではなく記録だけれども、
いちいち真偽のほどを確かめつつ、用語を調べつつ読んだら、
疲れたというより、何度も読む気をなくしました。
いや、話自体はとても面白かったのだけれど。

うーん、時間がかかっても、やはり初回は何も考えずに読みたいなぁ。

泣きたい気持ちは、連なって冬に、雨を齎してくれる、
なんて、冬の雨は寒いよなぁ。
いや、別に泣きたいわけではないけれど。

泣く暇が、あればさっさと、課題やれ。
季語なし。

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2007年9月27日 (木)

もう食べられない

またしても中華街まで行って、
同席させていただいた初対面の御仁に、胸きゅんして帰ってきた。

疲れた。

しかし今日は久しぶりに学校に行って、
友人たちと会えて、不気味な部室周りも見れて、幸せであった。

バイナル・カスライン 上』 ナギーブ・マフフーズ

引き続き、アラブ文学。
またしても面白い。

先日読んだものと、同時代が舞台だというので、
またしても政治とか社会とか、そういう話なのかと思っていたら、
全く違った、かすってもいない。

なぜか三島由紀夫の『永すぎた春』を思い出した。
ちなみに『永すぎた春』は、三島作品の中でもかなりすきな作品である。
三島の描く母と、本作の母は、全く違う性格だとは思うけれど、
愛らしいような愚かさは共通していて、
これが女性なのだろうか、とふと思った。

いや、違う、本物の女性の愚かさは、愛らしくなどないだろう。

表現上、興を覚えたのは、比喩の多用。
比喩がうまいとだけ言うと、詩的、文学的、といった感があるが、
何が面白いって、そのほとんどが直喩なのである。
翻訳の上でそうなったのか何なのか、やたらめったら、直喩、直喩。
でもその表現がいちいち的を射ていて、よかったなぁ。

夜遊びにふける父が、それでも家族の前で威厳を保つため、
酔いを醒ましてから帰宅する、というのがなかなかよい。

道徳面で、あまりに私とかけ離れた世界なものだから、
読み始めは、楽しめるのかどうか不安にもなったけれど、
いやはや、楽しい楽しい。
共感というのは、何も同じ境遇であることが前提ではないということか。

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2007年9月23日 (日)

短い短い夜

もうすぐ学校が始まるようなので、
生活リズムを改善しようと努めている。

早起き。
基本はこれだろう、と思い、バイトが入っているというのもあるが、
ここ数日は、それなりに早起きをしている。

が、しかし、早寝ができない。
今日も今日とて4時半を回っているが、眠気は訪れてくれない。
そのくせ、数時間後には、朝だと言って活動を始める。

あぁもう、寝よう。

『大地』 アブドル・ラフマーン・アッ シャルカーウィ

翻訳ものだし、政治の話出てくるし、長いしで、
苦手な要素ばかりだったが、これがなかなか面白かった。

いつの間にか消えていた語り手は、
自虐的な言い方をするなら、少なくとも傍目にはエリートと目されてしまう、
そういう私や周囲の人々に近いのかもしれないな、と思って読んだ。

この農民たちとは非常に遠いけれど、
それでもまだモラトリアムの中にいる私には、
彼らに飛び込んでいくことも、可能と言えば可能なのかもしれない。

しかしそれでも、この語り手が新学期のために農村を離れていくのと同様、
私もまさに新学期のため、新生活のため、
大地に、感情に、意地に生きる道は選ばない。

ただ、大地に埋没できなくとも、
何がしかのつながりは、もっておきたいものである。

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2007年9月10日 (月)

盛沢山の買物

今年の手帳を買ったのは、ちょうど去年のこの時期だった。

一目惚れした、というか迷って迷って迷った手帳を、
アラスカで買ってきたのは、ちょうど去年のこの時期だった。

惚れて迷って、というくらいだから、
表紙はこれ以上ないくらいの好みだったのだけれど、
何せ大きい、分厚い、週間予定しかない、路線図もない、
そして祝祭日が欧米仕様。
使い勝手にはそれなりの不安があった。

が、しかし、今の今まで8ヶ月と少し。
当初こそ勝手の違いに辟易したものの、慣れてみれば何ということはない。
それどころか、表紙は馴染むし、開きも書き心地もよいし、
満足どころか、もはやこれなくして今年は越せない。

さほどに気に入ったので、今年も同じpaperblanksの手帳を買うことにした。

そうは言っても、そもそも日本では買えない。
いや、今年から日本での小売も始めたようだが、
どこで売っているのかよくわからないし、種類も少なくては困る。
そしてあのシンプルな中身が、日本仕様になるのも、何となく嫌だ。

噂によると、時候の挨拶などまで載っているらしく、
確かにそれは便利だとわかっているものの、興は削がれる。

というわけで、真っ当に、paperblanksのサイトに行ってみるが、通販はない。
Amazon.co.jpに頼ってみるが、予想通り種類がない。
仕方がないので、Amazon.comにまで飛んでみると、
当然といえば当然だが、わんさか出てきた。

しかし、paperblanksのサイトで調べた時点でわかっていたことだが、
2008年の手帳については、デザインの種類が非常に少ない。
昨年、私が一目惚れしたような、いかにも私らしい、
派手で重く、かつやたらとエスニックな感じのものは、ない。

仕方無しに、今年に比べてやや落ち着いたものをカートに入れる。
それでもpaperblanks製品が欲しいと思ってしまうほど、
気に入っているから、我ながら気味が悪い。
それほど、馴染みがよいのである。

とはいえ、手帳に関しては種類が減ったが、
単なるノートであれば、話は違う。
私好みのごてごてしたデザインも、豊富に揃っているのである。

こうなると、ごてごてしたノートも、欲しくなるのが人の性というものである。
やたらどぎつい表紙のノートもカートに入れる。

やはり迷いに迷って、候補がいくつもあったのだが、
しかしこんな立派なノートを何冊も持っていたところで、
何に使うのかわからなかったため、理性の懸命な働きでもって、
泣く泣く1冊に止めたのであった。

で、気付いたら、送料も含めて42ドルのお買い物。
あぁもう、一昨年までの手帳経費が、思い出せない。

午後の曳航』 三島 由紀夫

名言集というものを、あまりすかない。

ぱらぱら読んでいる分には面白いし、
やはり名言というだけあって、感じ入る言葉も多いから、
一概に否定はしないが、しかしどうもすきとは言い難い。

というか、人の言葉、それも文脈を排除した体のよい言葉にあやかって、
それ以上の思考、独創を放棄してしまう、
そういう受け取る側の姿勢が気に喰わないのだと思う。
もちろん、そこには私自身も含まれるのだが。

少年たちの語る、罪業にまみれた父親というのを思っていたら、
そんなことを思い出しました。

世俗の中で、浸蝕されていった末の、型通りの大人たちをどんなに拒んでも、
避けてはいかれないから、悲しい。
しかしその敵によって守られていると実感するこの少年たちは、
賢いけれど、卑しくて、それがまた浸蝕の一歩なんだろうな。

しかし名言はどうなのかと書いておいて、
「悲しいけど、これ、戦争なのよね」は間違いなく名言だと、
つい一昨昨日に言い放ったのは、私です。

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2007年9月 4日 (火)

悩みの種

アレルギー症状が、絶えない。

しかし何に対するアレルギーなのかは、
知りたくなかったし、知ろうともしなかったので、知らなかった。
知ってしまったことで、この先の人生を、
ずっとそのアレルギー源に怯えて暮らすことになるのが恐ろしかった。

それで、何度か検査を勧められたものの、すげなく断ってきたのだが、
しかし先日、何の説明もなく採血され、検査に回されてしまった。

インフォームドコンセントって、何だろう。

同意もしないうちに検査ということになってしまったわけだが、
それでも検査は検査、
しっかりお金はとられてしまったので、
こうなったら結果を聞かないわけにもいくまいと、今日、結果を聞きに行った。

それで今は、あぁ、やはり検査なんてするべきじゃなかったな、と思っている。
まぁ、薄々感づいていた結果ではあったけれど。

医師に、もっと細かく検査にかけてみようかと言われたが、
ここはしっかり断った。
これ以上、敵を増やしたくはないのである。

或る少女の死まで―他二篇』 室生 犀星

「性に目覚める頃」

なぜか、三島由紀夫の『金閣寺』に出てくる、
あの足の悪い男を思い出してしまい、どうにも印象の悪いことになってしまっった。
全く違うとわかっていながら、頭から離れなかった彼の名は、何だったか。

家の前にやってきた主人公の足音を、逡巡して立ち止まっている間を、
聞き取ってしまう静けさの中で臥せる淋しさと言ったら、ないなぁ。

「或る少女の死まで」

こちらで思い出したのは、アラブ人の話であって、
どんなに貧しくとも、余裕がなくとも、
客人には豪勢に振舞う、というそんな話であった。
あるいは、いつ客人が来ても困らないほどの食事を用意する、インド人の話。

どちらも、いつ何時、厳しい路程を越えてきた客人が来ることか、
いつ何度、自分自身が厳しい路程を越えてきた客人となることか、
そういった砂漠の民なりの思いやり、というかマナーであるとか何とかだが、
そういったものを思い出した。

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2007年9月 1日 (土)

夏の日

労働するか遊び歩くか。
8月もそうして去っていった。

学生最後の夏は、学生の本分を忘れたままに過ぎていく。

或る少女の死まで―他二篇』 室生 犀星

「幼年時代」

詩人としてというより、作家としてすきである。
それは恐らく、私が詩歌にさほど興味がないからなのだろうが。
まぁ最近は、以前に比べて、詩歌も楽しめるようにはなったけれど。

室生犀星の、この独特の文体というか言い回しというか口調というか、
それが何となく微笑ましい、いや微笑ましいどころか泣けてくる。
いちいち、沁みる。

学校の先生の、天然痘の痕の件、
怒り出すとそれがひとつひとつ赤く染まっていく、
という表現が、もう恐ろしくてたまらない。

「かわいさ」と「かわいがられたさ」というのが、愛らしいと思った。
いや、全体的に、愛らしいと思った。
そしてこっ恥ずかしい恋愛小説よりよほど、切ないのであった。

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2007年8月28日 (火)

能力不足

自分のお金に関して、やや大雑把である。

お財布にいくら入っているか、いまいち把握していない。

旅行中、買い物に行ったときも、
立て替える余裕があるかどうか聞いてくれたcoldtopicに対し、
「んーわかんなーい」
と、いかにも頭悪そうに、しかし素直に答えたら、
「あなたねぇ、お財布の中身くらい把握していなさい」と例のごとく呆れられた。

そういえば、お金に関しては、
先日、ryoが電話していた向こうでsuzuも呆れていたな。

いや、まぁ、ある程度なら覚えているのだけれど、細かくはわからない。
よほどお金のないときは、細かく覚えているけれど。

帰りも、どうも思うより残金が少なくて首をかしげたが、
そもそもいくら持ってきたのか、きちんと把握していなかったし、
まぁお酒だ何だを買って、知らず知らず使ったのだろう、と思い込むことにした。
すると、夜になってメールがきた。

旅行代金、払うの忘れてました、と。

徴収しているとき、彼は寝ていたのであって、
起きてから、ないし翌朝にいただこうと思って、すっかり忘れていたのであった。
これはもう、しっかりしていない幹事の私が悪い。

と、反省したのであったが、またしても、ろくなことをしなかった。

同じく大雑把な連れと飲んで、ふらふらしていたら、
やはり残金が思ったより少ない。
先日の反省もあって、今回はちゃんとお財布の中身を確認してきた。
しかし、いくら使ったかをきちんと把握していなければ、意味がない。

何か、少ない気がする、と言ったら、
恐ろしいことに、連れの財布の中身が、増えている。

思い返せば、細かいお金がなかった私は、
とりあえずこれでお会計を済ませておいてくれ、と連れに任せて席を立った。
そしてどうやら彼は、さして酔ってもいなかったくせに、
そのままお釣りを着服し、私もまた席に戻っても彼のお代を取り立てなかったらしい。

奢る上に、恵んでやる義理など、全くないというのに。
しかし彼にも悪意は微塵もなかったであろうことは、よくわかっている。
わかっているだけに、私の情けなさが目立つ。
お互い、無駄に謝り合って、落ち込み合ったのであった。

今後、お財布の中身は確認してから家を出ます。
どれくらい使ったかも、一々確認します。

溺レる (文春文庫)』 川上 弘美

いわゆる恋愛小説、恋愛映画が苦手なのは、
読んでいてこっぱずかしくなるからだが、
それがないので、この短編集はよかったと思う。

こっぱずかしくなるというのは、
まるで恋愛が高尚なもののように描かれているか、
あるいは何か必死なもののように描かれているかなのだろうけれど、
この本作の中では、あくまで日常の一部として、
淡々と、独特の静謐さをもって語られているから、すきだ。

言葉の選び方も、ともすると鼻につくのだろうが、私は心地よかった。
擬音語・擬態語をうまく使える人は、いいなぁ。

新潮以外の文庫だと、しおり紐がついていなくて困るのだが、
Y君からいただいたブックカバーには、しおり紐がついていて、
とてもとても重宝している。
今更ながら、ありがとう。

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2007年8月22日 (水)

瑣事

3年来の付き合いの友人に、いまだに名前を覚えてもらっていない。

いや、音は覚えてくれている。
とはいえ、彼女はいつも私を名で呼ぶので、姓を覚えているかどうかは怪しいが。
とにかく名の音は覚えているようだが、字を覚えてくれない。

確かに、私の名前はよくある名前で、漢字のバリエーションも非常に多い。
しかし、漢字3文字で成り立つ私の姓名のうち、
2文字はそれ以外考えようのない字なのであって、
彼女が常々間違える、問題の1文字、それさえ覚えてくれれば、
私の名前は完成するはずなのだが。

たとえ1文字でも、覚える気がなければ難しいということか。

そんな彼女は、「大好きさ」とメールをくれたので、
まぁ単純に、彼女にとって字など何の問題でもないのだと思っておこう。


脂肪の塊・テリエ館 (新潮文庫)』 ギ・ド・モーパッサン

食べ物にがっつく姿と、
利や保身のために人間にがっつく姿とが、うまく重なっていて面白い。
結局、高潔なのはこの脂肪の塊、つまり娼婦というのも、
ありきたりといえばありきたりだが、しかし面白い。

歴史が横につながっていかないというこの不甲斐なさをどうしよう。

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2007年8月21日 (火)

いらないとは言わない

この夏、自室のクーラーをまだ稼動させていない。

そもそもクーラーが苦手である。
なければないで勿論困るのだが、しかしどうも倦怠感が体に残る。

今日は久し振りに、クーラーの効いたところで、
一日中デスクワークに従事したわけだが、
おかげでどうも眠れない、件の薬の力を借りているというのに、眠れない。

そうか、暑いままにしているから、PCの調子が悪いのか。
いや、多分違うけれど。

予告された殺人の記録 (新潮文庫)』 ガブリエル・ガルシア=マルケス

私の苦手とする翻訳ものの、典型。
どう典型かと言われると、やや説明に手間取るので、省くが。

しかし内容は非常に面白い。
殺人者2人が、どうにかして殺人を阻んでもらいたがっている、
というのが、たまらない。

これだけ登場人物がいるのもかかわらず、
各人の思いも煩わしくない程度にきちんと描かれていて、すきなのだが、
いかんせんカタカナでは人の名前が覚えられないのであった。

今更ながら、初ガルシア=マルケスであった。
なるほど確かに面白い。
しかし『百年の孤独』に手を出すかどうかというと、
何せ翻訳嫌いなので、そして文庫派なので、迷うところである。

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2007年8月16日 (木)

健全たる処世術

死ぬかと思った。

と、もうこの22年間に何度も思ったけれど、
こうして22年目を過ごしているのだから、そう簡単に死なないわけだが、
しかしやはり思うときには本気で思ってしまうものである。

タイミングをつかむのが下手なのだと思う。

先日、バイト先の上司と飲んでいて、
私がバイトを長く続けていることに関して、
辞めるタイミングがつかめないだけだと言ったのだが、
バイトの進退のみならず、万事において、どうもうまくタイミングがつかめない。

今回の、人生何度目かわからない、「死ぬかと思った」にしても、
要はそういうことなのである。

以前も書いた気がするが、病院に行くタイミングがつかめない。

多少、どこか体に不具合を生じたとして、まず思うのは、
まぁ数日すれば治るだろう。
数日してもよくならない、ないし悪化すると思うのは、
今更行くのもどうだろう、耐えられなくなったら行こう。
そうして次に思うのは、
果たして、この程度を耐えられないと言うのだろうか。

それでずるずる病院に行かないでいて、
最終的にやっと行ったときには、医者に呆れられる、というのが定式である。

別に、病院は嫌いでないのだが。

そういうわけで今回も、夏風邪なのか何なのか、
けだるさと微熱がおさまらない日々が続くものの、前述の通り、
まぁ数日すれば治るだろう、に始まり、
その数日を経てしまえば、
今更行くのもどうだろう、耐えられなくなったら行こう、に移っていた。

今回の症状に関しては、夏ならば多少は誰にでもあることで、
そういう油断もあったといえる。

そうしているうちに、起き上がれなくなったのが、今朝であった。

病院に行ったら、定式通り呆れられたが、
病院ならではの処置のおかげで元気になったのであった。
やはり簡単には死なないものである。
まぁ諸症状もそのうちやむだろう。

それにしても、首から胸元にかけての湿疹を見た医者が、
それもどうにかしなさい、と言ったけれど、
同院内の皮膚科が休みであるという、このひどさは何だろう。

ということで、サリーも届いたし、元気です。
元気印です、とは言いませんが。

アサッテの人』 諏訪 哲史
題材はすきだし、音律に関しては共感もしたし、
存在への苦悩そのものを丁寧に表現していて、
もしか、それこそタイミングがあえば、私は泣きたくもなったと思う。

ただどうも絶賛できないのは、
作中でも言っているように、やたらスノビズムを感じてしまう点、
面倒な構成を用いる必要があったのかという疑問を感じてしまう点、
そして何より、言葉を尽くして語ることを放棄したように感じてしまう点による。

図らずも石原慎太郎氏の評と重なってしまったのがどうも癪だが、
「文中に出てくる『声の暴発』なるものを活字の四倍大の黒い四角で示すとか、
最後に『読者への便宜を図るため』として
『叔父の肉筆によるオリジナルな平面図』なるものを付記しているのは、
作者の持つ言葉の限界を逆に露呈しているとしかいいようない」
ということを、少なからず私も思ったのであった。

小説中に視覚表現を用いることは、有効な手段だと思う。
それは何も今に始まったことではなく、
改行や空白、ひらがなカタカナ漢字の文字種、
さまざまな形での表現が使われてきたのであって、
それらのもたらす効果というのは非常に大きいと思う。

ただそれにしても、
やたらと太字ゴシックを使ってみたり、
上述の黒い四角を用いてみたり、
抑揚を図でもって表してみたり、
ミステリでもあるまいに、部屋の平面図を書いてみたり、
というのは、言葉について丁寧に書かれている作品だけに、
急に手を抜かれたような気がしてしまった。
その手法が、文字という形での言葉に対する挑戦だというのなら、
まぁそうなのかもしれないけれど、好みではなかった。

ただそうした不満を差し引いても、
音やリズムの面白さ、やや哲学的な叔父の世界観、
無理に社会を描かず、叔父という人に終始したところなどは、
よかったな、と思いました。

本来の意味を剥奪した、ただ音とリズムからなる、
自分だけの意味なりイメージなりを持つ言葉って、あるよね。

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2007年8月15日 (水)

書物に親しみ

本格的に本を処分しようと思い、
残すものと残さないものとの選別をした。

処分品が、150冊余りにのぼった。
一体私は何をこんなにためこんでいたのか。

私は常日頃から、買っては捨て、買っては捨てを繰り返してきたが、
それでもやはり、ためこんでいたのだと改めて思う。

家を出た友人宅などにお邪魔するにつけ、
本棚の淋しさを思ったりしたものだが、当たり前である。
重いし、場所はとるし、かと言って、読み返すでもなし。

そうは言っても、形ある物としての本への愛着は消えず、
いつか処分するのはわかっていても、今後も買わずにはいられないのだろう。
と、まだまだ残る非処分品の山を見て思う。

物として手元には無くとも、何らかの形で残っているはず、
と、柄にもない甘いことを思いつつ、出張買取の予約をした夕方であった。

憑神』 浅田 次郎
今更、浅田氏に対して、
私ごとき、ちょっとかじっただけの人間が付すコメントでもないが、
武家のしくみをよくわかっているなぁ、と思った。
そして武士や江戸っ子のイメージをうまく描いていて、
それがとても気持ちよくて、面白かった。

神々がやや単純すぎる気がしないでもないが。

普段は文庫の解説なんて、ほとんど読まない私だが、
磯田氏が書いているとなれば読まないわけにはいきません。
いやはや、こんなところでお見かけするとは、びっくりしました。

あぁ、早く寝ないと明日もたない。

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2007年8月13日 (月)

予期していなかった安堵感

どうやら、夏風邪を引いてしまったようだ。

私が馬鹿であるかどうかではなく、
外気温と冷房下の差が激しすぎるのがいけないのだ、多分。

とりあえず温まろうとお湯に浸かっても、
どうも寒くてたまらず鳥肌が立ち、その割に汗だけはだばだばと出る。
温めているのか冷ましているのかわからない。

さてどうしたものかと、湯船の中で考えて、
昨日、中華街でいただいたチャイをふと思い出す。

あぁ、あれ、飲みたい。
お砂糖入れずに、シナモンとミルクと、それに生姜をたっぷり入れれば、
何となく弱った体によいのではないか。

と思うと矢も盾もたまらず、早速お風呂をあがるが、
はたと、そもそも我が家には紅茶というものがない、と気付く。
それに気付かないあたりが、夏風邪を引く所以なのかもしれない。

さて、どうしたものか。
紅茶がないならコーヒーか。

コーヒーにシナモンはわかるが、コーヒーに生姜はどうなのか、
とも思ったが、マサラコーヒーというものもあるわけだし、
大して問題もなかろう、と言い聞かせ、作ることにした。

こういう時、当初のものとは違ったとしても、作らないと気が済まない。

で、実際、作って飲んでみたわけだが、どうということはない。
ちょっと癖のあるコーヒー、という程度じゃないだろうか。
というか、割とすきな味だとすら思う。
もしかしたら風邪で味覚が曖昧になっていただけかもしれないが。

飲んで少ししたら、やはり汗がだばだば出てきたけれど、
かと言って冷えるでもなく、今はそれなりにぽかぽかしている。

そういえば、汗をかいて首がかぶれる、という私の夏の風物詩的現象が、
年々ひどくなっていく気がするのは、
隠そうとして無駄に巻物を巻くからだろうか。

ブラームスはお好き (新潮文庫)』 フランソワーズ・サガン
頷くところや瞠目するところがたくさんあったけれど、
安堵するところが多く、極めつけは最後の最後、
「人は決して一人のひとに、すべてを言えない」という当たり前の言葉だった。

最近は、女性作家が面白いと思えるようになってきた。
多少は大人になったものです、私も。

どうでもよいが、夏に生姜をすっていると、
どうしてもこれから素麺を食べるような、そんな気がしてくるのは私だけなのか。

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2007年8月12日 (日)

我慢のしどころ

絵を観に行ってきた。

中学生の頃からすきな、ノーマン・ロックウェルという人の絵である。
あまり展覧会なども開かれておらず、少なくとも私は知らず、
即売会ではあったけれど、観るだけでも、と思って、行った。

危うく、買ってしまうところであった。

一目惚れしたのは、500万以上もするもので、
流石にこれに手が届くわけはなかった。
しかし、これがオリジナルの版画であったのに対し、
復刻版の、複製の版画もあって、それが70万くらいだった。

5年ローンで、月々2万弱。
学生ということもあって、勉強して、1万強になるとのこと。
…手が届かなくも、ない。

某石鹸屋の店員にすら勝てない私が、
熱心な画商のおねえさんにも、あの魔力のような絵の魅力にも、
どうにか打ち勝てたのは、一緒にいてくれたEのおかげでもあったが、
しかしやはり、オリジナルとレプリカの歴然とした差のおかげだったろう。
色味が、全然違う。

もしか、オリジナルを先に観ることなく、
レプリカの方を観てしまったなら、月々1万と少しの負担も負ったかもしれない。
まぁ、レプリカだけ観て一目惚れできたかどうかは別としても。

結局、欲しかった作品は諦め、
3番目に欲しかった作品の、額入りポスター格安2500円を買って、
画商の方々にひたすら謝りながら、会場を後にしたのだった。

いっそポスターになれば、さして迷わず買えるというものである。

あぁ、やはり欲しかった、悔しい。
いつか、稼いで、すきな絵を買ってやろう。

停電の夜に (新潮文庫)』 ジュンパ・ラヒリ
「セン夫人の家」 

この刃物、ちょっと面白そう。
「ここの人、みんな、自分だけ世界にいる」という言葉。
似たようなことを主張する作品は世の中にたくさんあると思うが、
しかしこの表現が、何だかとても気に入った。

「神の恵みの家」 

後味がよろしい、愛らしい。
男性が料理をするのって、本当にいいなぁ。

「ビビ・ハルダーの治療」 

きっとこういうことで治ることって、たくさんあるんだろうなぁ。

「三度目で最後の大陸」 

短編集の最後にふさわしいお話。
人間、至るところ青山あり。

インドサリー、購入してしまいました。

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2007年8月 9日 (木)

なにしろ暑い

ゼミの同期と、鴨川に行ってきた、焼けた。
京都ではなく、千葉の海である。

常々、私は海に行きたい海に行きたいと騒いでいたが、
正直な話、ここまで海が楽しいものだとは思っていなかった。
また近々内房に行くが、そのときにはやはり何か浮くものを買っていくべきか。

それにしても、いつも人と旅行に出かけると、
楽しい一方、終わるとものすごく疲れているものだけれど、
今回はそうでもなかった。
やはり睡眠時間と酒量、そして寝床の問題だろうか。

女性だけで集まって、それなりに深く話すという機会が、嬉しかった。

一般的に女の人は、恋愛のこと以外、話題にできることがない、
と、女性嫌いを謳う男性に、軽蔑と哀れみをもって言われたことがある。
私個人がどうかは周囲に聞かなければわからないが、
「一般的に」といえば、思い当たるふしもないでもなく、
それを否定できずに、情けなく思ったものである。

が、私の周囲の友人たちを見回すに、そうでもないとも思う。

それは私がそういう女性を好んで友人とするからなのか、
一般化して言えることなのか。
そんなことは知ったことではないが、まぁ恐らく前者だろうと思っているくらい、
私は尊大だし、いわゆる「女の子の集団」が得意ではないのである。

言いつつ、いちいち「女の子」と区別する人を、
ないし区別することでしか寛容できない私自身を、好ましくは思えない。

停電の夜に (新潮文庫)』 ジュンパ・ラヒリ

「セクシー」  

同じ短編集に収録された夫婦の物語が、
たとえそれが別れを描いたものであっても、
夫と妻が、よく双方のことを語らってきたのだということが窺われる。

しかし既婚男性と不倫する本作の女性は、
相手の話はよく聞くが、というのは彼女が尋ねるのではなく彼が自ら話すのだが、
その割に彼女自身の話はほとんどしていない。
自分から言うことはほとんどなく、彼の方がたまに水を向ける程度である。

男を愛したい女と、男から愛されたい女がいるとして、
彼女は少なくともこの男性に対しては前者なのかもしれない。

彼女が部屋を整え、自身を飾るのも、
愛される自分のため、というより、相手のためのように思われるし、
夫に浮気されてもおとなしくしている女性に共感しているというのも決定的。

そしてそんな彼女は、愛人として選ばれる。
わかりきったことではあるが、そんなことを改めて思った。

それにしても、「セクシー」という言葉を、
「知らない人を好きになること」と定義したのは、うまい。

スカートの中の秘密の生活 (幻冬舎文庫) 』 田口 ランディ

何を今更、と思うことが多くで、そして軽くて、それが面白かった。
ひとりよがりな感は否めないが、エッセイだしな。

女性の性に関して語るところが大きかったわけだが、
別に女性に何かを呼びかけているわけではなくて、
男性を教化するとでもいった内容だと思うが、
その割に、女性向けおような表紙だな、と思った。

赤裸々に性を語る割に、少女趣味な、というか乙女ちっくな面を強調するのは、
それがあまりに乙女ちっくで鼻につく感もあるが、
下手に格好をつけるよりは好感がもてた。

雨の降らない旅行は楽しかった、もちろん天気のおかげだけではなく。

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2007年8月 5日 (日)

白状

いまだに自宅住まいではあるが、
親に言えない、わけでもないが、敢えて言わないことは、たんまりある。

そのひとつが、車の運転。

早々と親のお金で免許をとってしまったので、
レンタカーを借りてどこかに行こう、というときは、
人を乗せて運転することがある。
特に最近は、そんな機会も増えた気がする。

田舎住まいなので、普段から運転するし、
私自身、どちらかというと運転はすきなので、全く嫌ではない。
しかし、人を乗せて私が運転するなどと、父母に言おうものならば、
恐らく非難の嵐が吹き荒ぶだろう。

それほどに信用されていない私の運転で、
明日からゼミの同期と、海に行ってきます。

各自、周囲の人に無事を祈ってもらうこと。
好天も祈ってもらうこと。

停電の夜に (新潮文庫)』 ジュンパ・ラヒリ

「停電の夜に」

ありきたりな設定ではあるけれど、うまく裏切られた感が快い。
停電が早く終わるとの知らせがきたそのときとか、
無理に停電を作り上げるあの空しさとか、
ふたりの気持ちのひらきとか、その他も色々、好ましく読めた。

しかし大きな家だな。

「ピルザダさんが食事に来たころ」 

本当に、各国の歴史や背景について、私は知らないことだらけである。

主人公の父母の、新学期になるたびに、
名簿に同郷らしい苗字の人を見つけては、家に招く、というその行為が、
私にはあり得ないだけに、どこか滑稽に、哀れに思える。

それはこの短編集のどの作品にもあてはまることで、
どこにあっても部外者であるという、
語弊のありそうな安易な表現をすれば哀れで不思議な状況があって、
しかしその中でやはり同胞を求めてしまう点が、
それも大雑把な意味での同胞を求めてしまう点が、
滑稽に、弱々しく、そして愛らしく思われる。

だから、地球上の人間が仲良くなるには、
宇宙に外敵を作ればよいのだ、という終わらない話。

「病気の通訳」 

この病気の通訳、というかガイドが、
妻の裸体すら見たことがない、という点に驚いた。
秘すことの色気って、高級だと思いますけれど、
結局それじゃ満足いかないものなんですね。

「本物の門番」 

これは、心地よくない裏切られ方だな。
沈んだ。

あぁ、荷造りをしなければ。

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お茶を飲む間

地元の、とあるごはんやさんのコーヒーがすきである。

私はコーヒー目当てで行くものだから、あまり食事はしない。
もちろん、食事もおいしいと思うし、食事をすることもあるのだが、
やはり食後のコーヒーが大切なのである。

コーヒー目当て、ということは、つまり私は喫茶店のつもりで行くのであって、
私が喫茶店ですることと言えば、喫煙か読書、かたまに勉強である。
まぁ件の店で勉強をしようとは思わないが、読書はする。

しかし私が一方的に喫茶店とみなしているだけなのであって、
まがりなりにも件の店は「食堂」を標榜しているのであって、
読書をする、つまり長居をするような客は、やはり煙たがられているのだろうか。
それも、単価の安い、コーヒー一杯で。

と、たまに思うが、まぁ込んでいる時間に行くわけでもなしに、
許していただこうかと思う。

おめでとう (新潮文庫) 』 川上 弘美

こういう、さらさらとした、こんこんとした感じが、最近は割とすきだなぁ。

解説にもあったから、そう思ってしまうことが癪だけれど、
ふふふ、という笑いの起きるような、そういう感じ。
それは何も本に対する志向に限らないのだが、
そんな自分を見つけるたびに、よくも悪くも年をとったのだと、実感する。

しかし私はよく、年をとった、と言うが、
それは私自身の老化ばかりを指すわけではない。

勿論、心身ともに変化はあって、
恐らくそこには年齢、というか経験が大きく影響しているのだけれど、
しかしそれ自体は、よくも悪くもと言ったように、
さほど悔やんでいるわけでもない。
悔やむことも惜しむこともあるけれど、それだけでもない。

しかし私が最近、年を取った、とよく言うのは、
他人による評価・認識の問題を指すことが多いのである。
そして当然、その認識以外、その人の中に私はいないのである。

川上弘美は、そういう、他人からの認識、
つまり語り手自身ではなく、語り手の認識する誰か、
あるいは語り手が向き合う誰かの認識する語り手、
それが、読んでいてなかなか面白いな、と、ここのところ読んだ何作かで思った。
さらりと読めるわけですが。

と、書いておいて、そういった点とはあまり関係なく、
「天上大風」が気に入りました。

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2007年8月 1日 (水)

湯上がりタオルで体をつつみ

久々に、日のあるうちに帰宅した、幸せ。

せっかく家にいるのだから、労働の疲れを癒す何かをしよう、
と、意気込んで癒しを求めるという矛盾した考えを抱いた。

癒し、といえばお風呂である。

こんな阿呆みたく労働などしていなかった、ありし日の私にとって、
長風呂は夏の贅沢のひとつであった。
昼間からぬるめのお湯をはって、だらだらと本を読む、
というのが、夏休みの贅沢だったのである。

むくんだ足と凝り固まった肩も、どうにかなるかもしれないし、
コトちゃんにいただいたバスソルトもあるし、
と思って、思い立ったが吉日、吉時、お風呂場に直行した。

こういう「何かしよう」と思ったときは、
どうしてか万全の状態でのぞみたい、と思ってしまうのは私だけなのだろうか。
それも、自分の状態ではなく、環境。
何を思ったか、私はお風呂場のドアを開けた瞬間、
無性に掃除をしたくなってしまったのだった。

私はこれでも、疲れていた。
それなのになぜ、一所懸命になって浴槽を、床を、壁を、磨いていたのか。
目的があると、無心になれるものなのか。

おかげでいっそう疲れ、いっそう気持ちのよいお湯となったが、
一体私は何をしたかったのだろう、と振り返って思う。
3時間近く入っていたら、本は読み終わったけれど、
肩こりは解消されることはなく、体は温まるどころかなぜか冷えていた。
あれだけ磨いたら、明日は筋肉痛なんじゃなかろうか。

とは言え、ものすごい贅沢をした気分である、幸せ。

悲しみよこんにちは』 フランソワーズ・サガン

翻訳は苦手、などと言って避けてきたことが悔やまれる。

アンヌは立ったまま、じっと私をみつめて話したので、私はひどく気まずかった。
彼女はまっすぐに、動かずにしゃべれる女たちの一人だった。
私には、長椅子だとか、手持ち無沙汰に摑む物だとか、煙草だとか、
足をぶらつかせるとか、ぶらついている足を眺めるとかが必要だった。

「あなたよりも少しは自信がなければ困るじゃないの?
あなたが私に影響を与えちゃうわよ」
アンヌはふき出した。
私は自尊心を傷つけられたような気がした。
「それは悪いばっかりでもないでしょ」
「そうなったら大へんなことになるわ」と彼女が言った。

青春だなぁ、少女の。
これを経た少女は、きっと誰かの言うような「女の子」にはならないのでしょう。
言葉にできないもどかしい感情たちが、ここでは言葉になっていた。

しかしこんなに毎回、宿酔いになるほど飲むセシルって。

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2007年7月20日 (金)

目をみひらく

ライトベージュのパンツに、白いゆるめのカットソー。

そういう出で立ちの今日の私は、確かに珍しかった。
しかし、もう4年目になるバイト先で、
もう4年の付き合いになる同僚に、
「そんな格好してるから、名前出てこなかった」
などと言われるとは、まったく情けない話である。

それにしても、不思議な発言である。
彼は、人の格好から名前を思い出すのだろうか。

ニシノユキヒコの恋と冒険 (新潮文庫)』 川上 弘美

心揺さぶられることや、はっとすることは、あまりなかったけれど、
しかしいたるところで共感を覚える。
それはおそらく、だめなひとをすいてしまう、とか言っているくらい、
私がだめなひとだからなのだろう。

「甘くみあわないで、どうやってひとは愛しあえるだろう。
許しあって、油断しあって、ほんのすこしばかり見くだしあって、
ひとは初めて愛し合えるんじゃないだろうか。」

そんなものなのかな。

後期のディスカッションに備えて読んでおくように、
と指定されたアラブ文学6冊のうち、とりあえず先の4冊を、
と図書館で急いで確保してきてしまったので、
卒論に充てられる文献は3冊となってしまった。

7冊って、少ない。
…誰か7冊分使わない人、名義貸してくれないかな。

それにしても、早速読み始めた1冊目は、
翻訳嫌いを克服させてくれるのではないかと思うくらい、今のところ面白い。

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2007年7月18日 (水)

あぁあの髪の長い

昨日、部屋のそうじをしていたら、写真が出てきた。

写真を撮られるのが苦手なので、あまり枚数はないのだが、
それでもたまに人からもらったりして、
枚数が少ないだけに、特にまとめるでもなく、机にしまっておいたのだった。

髪が伸びない、髪が伸びない、とここ最近嘆いていた私だが、
写真を見て、これでも伸びたんだな、と実感した。
しかし問題は、せっかく髪の毛を伸ばしているというのに、
短い方が似合っている気がしてならないことである。

と、大学生活のうちで最も髪の短かった頃に出会った某氏に、
昨晩そのように言ってみたところ、すげなく同意された。
しかし彼は、それでも個人的には長い方がいい、と言ってくれたが、
全くもって慰めにはならなかった。

そして今日、asariにも言ってみたが、やはりすんなり同意され、
もう切ってしまおうかと思ったけれど、
ここまで頑張ってしまった以上、やはり伸ばし続けるのが私なのだろう。
まぁ、長い方が何かと便利だしな。

終電で帰らないことはままあっても、ここのところ始発で帰ることはなかったが、
今朝は久々に始発に乗った。
結構、清々しくて嫌いじゃない。
しかし、そんなことをすると、ものすごく疲れるのだと、
今更になって実感している。

そもそも、そんな状態で、ラーメンではなく二郎という麺を食べたのがいけない。
固形物はさっさと胃から脱してくれたが、あの油はいかんともしがたい。
今日の二郎は、いつにも増して、油だった気がしてならない。
とか何とか言いながら、何だかんだ好んで食べてしまうから不思議である。
今日の二郎を食べ納めになど、しません。

しかし二郎の後、なぜ私はあんなにテンションが高かったのだろう。
あれだけ気分が悪い中、あれだけ元気な自分が不気味だ。

あぁもう、さっさと髪の毛伸びないかな。

ダブルハッピネス』 杉山 文野

彼の酒代は一体どこから出ているのか、そればかり気になってしまった。
そういうことだとか、文体だとか、著者の性別云々を抜いた考え方だとか、
そして高橋歩だとか、この本を読んでそういうことばかりに目が行く私は、
そういう私が嫌いではない。

絵のない絵本 (新潮文庫)』 ハンス・クリスチャン・アンデルセン

和む。
しかしやはり入り込めないのは、翻訳のせいなのか、何なのか。
もう一度、読もうかな。

直木賞を受賞された松井今朝子氏の『吉原手引草』が読みたい。
誰か単行本を買ったら、貸して下さい。
『アサッテの人』も読みたいけれど、こちらは文春待ちかな。

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2007年7月14日 (土)

二度あることは

傘。

傘を買ったんです、失くしたから。
日傘も雨傘も失くしたから、晴雨兼用の傘を買ったんです。
今度こそは失くさないようにしようと思って買ったんですが、
買ったその日に、失くしました。

朝、人の家を出るところでやっと気付き、崩れ落ちた私。

何だか昨日はいつになく気持ちよく酔っ払って、
一体何をしていたのか記憶が切れ切れになっていますが、
とりあえずcoldtopic家で、人の話も聞かずに喋っていたことが、
申し訳なく思われますが、でもまぁ楽しかったから許してもらおうと思います。

Sさん、誘ってくれてありがとうございました。
私は楽しかったです。

coldtopicくん、傘、ありがとう。
案の定、地元で降られました。

今朝は無駄に唇をかみしめてしまい、
しかし傘と一緒にリップクリームも失くしたらしく、痛い。

さて、傘を買って、バイトに行くか。

ララピポ』 奥田 英朗

うまく連作になっていて面白かったけれど、どうも後味があまりよろしくないな。
それにしてもこの著者は、変人をあたかも一般人のように書くのがうまいな。

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2007年7月13日 (金)

試験もない

雨女なのに、傘を失くした。

バイト先の傘立てに入れておいたら、帰る頃には消えていた。
あぁ、由々しき事態だ。

「犬の食い残しを食べ、
それがはいっていた黄金の皿を盗み取った男の物語」
(『千夜一夜物語』 前嶋 信次訳より)

課題で、どれでもひとつ話を選んで語ってくれ、と言われ、選んだのだが、
何が面白かったって、無常観なんてのは、共通なのね、という話。
「運命の転変には何ら驚くことはない」

細かいことをあげつらえば、
もちろんどんなことに関しても差異は生じるけれど、
人のあるべき姿なんてのは、そうそう違いがないもので、
今読んでいるトルストイに納得するのはそういうところ。

そんな課題を与えてくださった先生は、
長年の私の葛藤を蹴散らすありがたい言葉をくれたのであった。
曰く、その本を面白いと思えるのなら、「文学」なんてやらなくてよい。
何が面白いのか分らないようなら、「文学」的に研究して面白さを探せばよい、と。
自分でそう思うのと、人から言葉にして与えられるのとでは、大きく違う。

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2007年7月11日 (水)

噴火

蝋を、かぶった。

アロマオイルを焚いており、水分が切れたので、
キャンドルの火を消そうと息を吹きかけたところ、
中々消えてくれなかったので、やや強めに吹いてやった。

液化した蝋が、その勢いに、飛び散った。
アロマポットの内部とテーブル、そして右手に、結構な量の蝋が、飛び散った。

熱い、という知覚よりも先に、恐怖が走った。
蝋というものがどれだけ熱いのかなど知らなかったが、
私にとっては蝋を垂らすということは即ち拷問の手段なのである。

手の平への釘打ちだとか、
でこぼこの上に座らされた上の石積みだとか、
耳そぎだとか、爪剥がしだとか、
そうした諸々の拷問手段が一瞬のうちに想起され、
直接に体験していることへの知覚より先に、
間接に想像する種々の耐え難い痛みが体のうちを走り、
恐怖したのであった。

しかし、その恐怖の瞬間を過ぎてみれば、さほど熱くないことに気付く。

まったく熱くない、といえば嘘になるが、
しかしその熱も、急速に冷えて蝋は固まっていく。
むしろそのぱりぱり感の方が嫌である。
砂糖菓子のような見た目も、嫌である。

最近読んだ中で言えば、江戸川乱歩や谷崎潤一郎の短編などに、
やはり蝋を垂らして相手を苛むような描写があり、
それを読むごとに、あぁ痛々しい、と、体の芯がかゆくなるような思いをしたが、
よくよく考えてみれば、蝋をかぶるくらいであれば、
これを快感とする性癖を持つような人もいるらしいのであって、
確かに耐え難いほどのものではなかったのかもしれない。

そもそもずっとその上で火を灯し続け、垂れ流し続ける拷問と違って、
垂らす、飛び散らす程度なら、さほどのものではないのだろう。

そう考えると先に挙げたような作品群にしても、
真実味が増すものであって、いやはや、実体験とは大事なものだ。

…いや、しかし熱かったには熱かったし、
もしか火傷になっているかもしれないし、
実のところは冗談じゃない、と思っているのだけれど、
そうでも言って誤魔化そう、というのであって、
決して私にそのような性癖があるわけでは、ない。

星の王子さま (新潮文庫)』 サン=テグジュペリ、河野万里子訳

昨年か、新訳が次々と出されたことに注目したにもかかわらず、
結局その新訳を一切読んでいなかったことに気付き、
やはり件のブックカバー目当てに買ってしまった新潮文庫。

「人間たちって」
「特急列車に乗ってるのに、なにをさがしてるのかもうわからないんだね。
だからせかせか動いたり、同じところをぐるぐるまわったり……」
という言葉に、『草枕』を思い出す。

目に見えないものの大切さを説くものがありふれてしまった今日でも、
こんなにやさしく責任を説くものは、中々ないのかも知れない、と思った。

今夏は翻訳ものを敬遠しない、と心に決めたが、
それで読んだ翻訳ものが、これか。

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2007年7月 7日 (土)

オレンジに染まる

asariの誕生会だった。

事前にみんなにメールをしたところ、
どうもみんなの都合が合わないような感じだったけれど、
何だかんだみんな来てくれて、私が喜ぶのも筋違いかもしれないが、
しかし素直に、ものすごく嬉しかった、幹事としてではなく。
こんなに集まったの、久々でしたね。

suzuちゃん、また今度、みんなで遊ぼう。

友人に順位などつける気はさらさらない。
きれいごとではなく、比べようもない。
それでも、4年間、ないし2・3年間、何となくでもこうして付き合ってきた連中は、
恐ろしく居心地がよく、何も考えずに済む、楽な場所を提供してくれる。
個人については今更言うまでも無いが、
集団を厭いがちな私が、この集団に関しては、これほどまでに、好いている。
好いている、というより、もはや固執している。

と、年をとったせいか、そういうことをよく思うこの頃である。
いや、以前からか。

とにかくおめでとう、asari。

蜘蛛の糸・杜子春』 芥川 龍之介

yonda?くんのアロハブックカバー欲しさに、今更買った芥川。
私は、やはりはっきりした色に弱い、と「蜜柑」を読んで思う。

芸術に関して、語ろうと言われれば、主観でならばいくらでも。
文芸に関して、語ろうと言われれば、主観でならばいくらでも。
…いくらでも、は嘘かな。

それにしても、久々に部室のビデオたちを観たら、ものすごく面白かった。
秋までに、また何か撮らねば。

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2007年7月 6日 (金)

へったくれもなし

日傘を失くした、ついていない。

千夜一夜物語を読みたいと思い、というか課題で読まねばならず、
どうせなら買ってしまいたい、と思ったけれど、間違いだった。
あんな膨大なもの、そう簡単には買えまい。
東洋文庫版のが欲しいけれど、全18巻に別冊がついたら、流石になぁ。

しかし全集というものへの憧れは、尽きない。

「先日の出来事。」 伊坂 幸太郎

笑った。
しかしパンダに出会ったときの描写は、どうかな。

「ドロップスは神様の涙」 重松 清
「銃を撃つ」 沢木 耕太郎

どちらも好みではないのだが、それは年齢の問題だろうか。
しかし居心地の悪さに関しては、何となく共感。

「急降下するエレベーター」 川上 弘美

あれ、案外、川上弘美、すきかも、と思うここ最近。
あくまで女性視点を離れないな、とも思うが。

「ほたてステーキと鰻」 北村 薫

まだわかりたくない。

「ささやかなおたのしみ」 湯本 香樹実
「知っているとトクはしない、超・遅読術」 荻原 浩

結局、ひとりの楽しみなのだから、どう楽しんだっていいのだと思う。

「永遠の片割れ」 唯川 恵

なんてありきたりでつまらない話なんだろう。

「アイドル」 角田 光代

引きずるのって、案外男性の方ですよね。
なんとなく、奥田英朗の『東京物語』を思い出した。
夏休みは終わらない。

「占いいかがでしょう」 西 加奈子

占いに頓着しない私だが、それでも一度くらいは占ってもらいたい。
何を言われるのか、気になる。

「〈とんでもない小説〉が読みたくて」 筒井 康隆
「色っぽい女になるための二十一の短篇」 辻原 登
「ガーリーな恋愛を探して」 辛酸 なめ子
「ミステリでバカンス」 有栖川 有栖
「男と女の自然科学は楽しい」 竹内 久美子
「料理にも、心にもおいしい本5冊」 高山 なおみ
「出会い頭5本勝負」 岸本 佐和子
「『新潮文庫の100冊』に私的10冊をプラス」 豊崎 由美

とにかく本を読みたくなったのだった、夏は長い。
いい加減翻訳嫌いを克服したい。
しかし誰も彼もが古典を推すあたりが、さみしいといえばさみしい話である。

「鍵」「使者」「解放の時代」 星 新一

「無意味な行為こそ良俗美俗で、
それが多いほど文化が高いというべきなのだろう。」
文化とか芸術は、無駄なものだが、同時に手放してはならないもの。

「すまいとばし思うて?」 中島 京子

著者の太宰観に激しく共感。
笑える太宰がすきなのである。
私も「春の盗賊」はすきなのである。

「eat me」 嶽本 野ばら

干物、といってしまうところが流石のセンスですね。

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2007年7月 5日 (木)

ちいさな脅威

田舎住まいのくせに、田舎の生き物に、弱い。

都会の人は、カエルの大合唱など聞いたことがないのだろうか。
私はと言えば、物心ついたときから、毎夏、それを聞きながら育ってきた。
気付いたときにはそれが鳴り響いていたものだから、
その正体がカエルなのだと気付いたのは、実は割と最近のことだったりする。

何の音なのか、ろくに考えもせずに、ただ漫然と過ごす私の鈍感さもあるが、
それほど当たり前に日々に溶け込んだ音なのである。
いや、溶け込むにはあまりに騒々しいから、
よもやカエルだとは思いも寄らなかっただけなのかもしれない。

ところで私は、カエルが苦手である。
擬人化して、キャラクターにしてしまえば、あれほど愛らしいものもないが、
しかし実際のカエルには、本当に、弱い。
カエルに限らず、田舎の生き物には大抵、弱い。

どれくらいカエルが嫌かというと、
高校生の頃、下校中に自転車をこいでいたら、
黄緑色の小さなアマガエルが、どこからか私の腕に飛び乗ってきたのだが、
驚きもあったとはいえ、その感触と見た目の拒絶のあまり、
私は絶叫したのであって、その絶叫は、
田舎の広い、それなりに交通量の多い道路をはさんだ向こうにあった、
GSのバイトのお兄さんを飛び上がらせた、という程度のものである。
誰かさんに誇張していると言われる前に書いておくが、実話である。

さほどに苦手なカエルの大合唱を、毎晩毎晩、
暗い中、ひとりで聞きながら帰っているわけだが、
それでも、いまだに何も考えず、漫然と歩く私には、
気にしなければ、ただの環境音に過ぎない。
しかしふとした瞬間に、これはカエルだ、と思ってしまうと、
恐ろしくて気味が悪くて、たまらなくなる。

つまり、音自体は不快ではないのだ。
ただ、音源が、不快なのだ。

今日もバス停から家までの間、
決して不快ではない音に囲まれながら歩いていたが、
何かの拍子にふと、不快な音源を思い出してしまい、
ざわざわした気分で早足になるが、待ち受けていたのは更に恐ろしいもので、
やっと音が遠くなったかと思ったそのとき、足元に見えたのは、
片足を引きずりながら、弱々しげに、無様に、懸命に飛ぶ、
黄緑色のアマガエルだった。

あと数十分で日付も変わろうという住宅地の中、
私の短い悲鳴がどれだけの影響力を持ったかなど、私は知らない。

黄色い本―ジャック・チボーという名の友人』 高野 文子

「誉められたことを恥ずかしいと。
つまりぼくは何よりも彼らに審判されたということが恥ずかしい」

suzuさん、きっとこういうところもあるのです、こないだ私が言っていたのは。

表題作に出てきた小学校のストーブが、
通っていた高校を、つい最近戻っていた高校の冬を、思い出させた。

すきな本を一生持っているというのは、私もよいことだと思うが、
しかし私が持っているのは保存に向かない文庫本ばかりで、
そしてすぐに捨ててしまうのであった。

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2007年7月 4日 (水)

酒を謳った詩人

飲んで笑って疲れて帰ってきて、更に笑ったこと。
回覧板を開いて、飛び込んできた文字が、「クマに注意」だったこと。

あぁ、田舎だ。

前々から約束をしていた知人が、急に体調を崩したというので、
どうしようかとふらふら考えた結果、ひとりで飲むことにした。

私はたまにひとりで飲みに行くことがあるが、
そういえば、こうやって女性がひとりで飲んでいるのは、
周囲からは一体どう見られるものなのか。

以前、バイトしていたジャズバーには、女性ひとりのお客様もいたものだが、
彼女たちには音楽を聴くという目的があった。
しかし、生演奏が聴けるわけでも、メイド姿の少女と話せるわけでもない、
フラメンコが見られるわけでも、ホストにちやほやされるでもない、
ごく普通のショットバーで、ひとりで飲んでいる女性というのは、
一体どう見られるものなのか。

恐らく、さみしく、そして暇な人間と見られる。

少なくとも今日に関してはそうだったようで、
どれほどさみしく暇な人間と見られたのか知らないが、
おかげで見知らぬ人に構ってもらえたようで、
まったくさみしくなく、むしろ楽しい時間を過ごすことができ、
結果としてまったく悪くないし、むしろ楽しかった。

が、しかし、別にさみしいわけではなかったのだが。

たまに一緒に飲みに行く知人の女性は、すぐに酔う割に大酒飲みで、
彼女もやはり、よくひとりで飲むらしい。
そして彼女には、話を聴く限り、お酒の席で出会った友人が非常に多く、
今の御夫君との出会いも、そもそもはお酒だったという。

が、しかし、ひどい方向音痴で、同じ店に何度と行けない私には、
まずできあがらない友人関係だろう、と、
彼女の話を聞いたそのときも、そして今日も、心から思った。

そういえば最近は、年相応に見られるようになってきた気がする。

恋するアラブ人』 師岡 カリーマ・エルサムニー

気が強くて、誇り高くて、自分なりの自己と理想像を確立した、
そして慈愛と教養の溢れる女性ならではの、
読んで楽しいアラブ紹介本であった。

人によっては、そういった彼女が、彼女の物言いが嫌味なのだろうけれど、
私は楽しかった、ということ。
往々にして、こういう女性は嫌味ととられやすい。
そして私は往々にして、そういう女性が嫌いではない。
むしろ愛らしく思うが、おそらくそんな「愛らしさ」を彼女たちは求めていない。

そういう、頑固で生意気、「可愛くない」ヒロインばかりが登場するという、
アラブの昔話というのは、それを語り継ぐアラブという社会は、そそられる。

「アラブの女性は、毅然としているからこそ美しい。
つぶらな瞳で男を見上げたり、猫なで声で甘えたりするふるまいが、
幸か不幸か、世界で一番似合わない。」

いい。
そして対する男性が、どこか情けなく可笑しいところが、またよい。

私は、いわゆるツンデレというのは、まったくすかないが、
このヒロインたちは、最後まで意地を張り通すというのだから、天晴れである。
意地、というのは、ときに馬鹿馬鹿しいものではあるけれど、
人はこういうものに、どういう方向にせよ、心動かされるものである。
流行らない、ナンセンス、と言いながら、いつの時代も意地は語り継がれる。

意地に限らず、本書ではアラブ社会の美意識が語られるが、
やはり美意識、そして芸術、「芸術」と名乗らなずとも芸術であるものは、
どうあっても携えていたいものであって、
詩を持たない国が敗者だ、という言葉は、
少なくとも私にとっては真実なのだと思う。

こういうものを読むと、やはり文学を勉強するべきだったのかとも思い、
著者の思惑にまんまとはまっている私を自覚するが、
しかし私は、それに没頭せずに傍観しているからこそ、
純粋に楽しんで、ときには憤っていられるのである。
それでも、言葉には常々気をつけていたいと思う、文学部生である。

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2007年6月16日 (土)

形のあるもの

基本的に、物事は悪い方へ悪い方へと考える質である。

そもそもは、後ろ向き、というよりも単に防衛反応の表れなのだと思うが、
しかしこの強固な本能も、対策を立てるには至らないから、
結局はただの後ろ向きになっているのは否めない。

それはさておき、そういう性質があるから、
物事ははっきり言ってもらえないと、困るのである。
無駄な不安を抱えてしまう。

たとえ私にとってマイナスのことであっても、言ってもらえないと、
はっきりしないことのために無駄に悩んでしまうのであって、
しかし悩んでいると思われるのも癪なので、
まるで気付いていないかのようなふりをすることになり、
まるで楽天家であるかのようなふりをすることになり、
しかしうまくもいかず、更に疲れるのである。

プライドなどという格好のよいものは大して持ち合わせていないが、
こういうところはプライドが高いと言ってもよいのだと思う。

それもさておき、そういう要求がある割に、
私自身もはっきり言えとはっきり言えず、
どうしようもなくうだうだと考え込んでいる、というのが、
まぁいつものことなのである。

その点、今日は、嫌なこともはっきり言ってくれる人のおかげで、
ひとつ懸案が片付いたので、まぁよかった。
同じ悩むのであっても、はっきりしないことで悩む方が、面倒だ。

まぶた (新潮文庫)』 小川 洋子

自分の声が男の声とうまくなじむのを知り、安堵した。
不可能な愛が一番美しいって、昔から言うじゃない。
命令している時のNが、わたしは一番好きだ。
僕は彼女に髪をといてもらうのが好きだ。
人差し指を突っ込んで器用に種を取り出す。
骨にして、お姉ちゃんのお腹に入れておいてよ。
酔っていない彼の声がよみがえってきて、
いたわりに満ちた質問をあれこれ投げかけてくれるかもしれない。
眠っていた場所っていうのは、体温が一番よくしみ込んでいるから。
世界の果てのどこかに、僕のための居場所が確保されているんだと。
などなど。

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2007年6月 3日 (日)

やるべき項目

人にものを返す約束があり、朝から大学に行った。
無事用事は済んだが、図書館で調べ物をしたく、
開館まで2時間、暇をもてあますこととなった。

当然、そんなことは事前にわかっていたから、
ちょうど読みたい文庫本があったので、それを読んで時間を潰そうと思った。
しかし、本屋に行ったら、目当てのものはなく、
仕方がないので他のものを買うことにした。

Yonda?グッズのため、新潮文庫を買うつもりだった。
新潮文庫の棚に行き、一冊の本を手に取った。
そのとき既に、何となく手触りが違うことには気づいていた。
新潮文庫のくせに、つるつるしている、とは思った。
しかしまぁたまに変わった装丁のものもあるだろう、と勝手に思い込み、
また特に詳しく知った著者でもないのに、信用して裏表紙のあらすじも見ず、
そのままレジに持っていった。

店員がブックカバーをつけるのに、裏を返したとき、
そこに見えたのは、新潮のマークではなく、文春のマークだった。
それは、つるつるもしているだろう。
というか、背表紙で気付くべきだった。

喫茶店に入るか、食事もできるところに入るか、
迷った末にモスに入り、気を取り直して買ってきた本を読み始めた。
途中、食事にしようと、タコライスを注文し、
我ながら悪い癖だと知りつつも、食べながら、読んでいた。
先日、これで人の本を汚してしまったことも、頭の片隅にはあったが。

食べつつ読みつつの状態を続けていると、
隣の席に親子連れがやってきた。
小学校に上がるか上がらないかくらいの少年と、その母。
彼はポテトを食べながら、おそらく漫画らしき本を読んでいた。
彼の母は、彼の行儀の悪さを咎めるが、しかし彼は私の方を見ながら言った。
「読みながら食べたっていいじゃん」

何せ恰好の手本が隣にいるのだから、言いたくもなろう。
彼の母の視線に、いや、それ以前に幼い人に悪い影響を与える気まずさに、
さすがに本を閉じ、食事に専念した。

食事を終えてしまうと、再び本を開いたのだが、
間の悪いことに店員が通りかかり、
店内が込んでいる訳でもないというのに、トレイを下げられてしまった。
2時間近く居座っていれば、当然と言えば当然だが。

仕方なく席を立ち、それでもちょうど図書館に着いた頃には開館しており、
目当ての本を探しに行った。
そう、目当ての本、というのがあったはずで、
確かに私は、今朝、家を出る前にリストを作ったはずである。
しかし、リストなど、作ったところで手元になければどうしようもない。
つまり、忘れてきた。

作ったリストは、急務のものではなかったし、
他にも行き当たりばったりで見るべき本もあったので、
何も来た意味がなくなるというのではなかったが、
それどころか大いに有意義な時間をすごしたのだが、
しかし忘れたと気付いたときのあの脱力といったら、ない。

有意義、とか言いつつ、これを書いているわけではありますが。

妊娠カレンダー (文春文庫)』  小川 洋子

自分がつわりで苦しんでいても、
隣でフランス料理のフルコースをたいらげるような男と結婚したい、
というところは、え、と思う反面、よくわかる気がする。

グレープフルーツジャムと、はちみつ。

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大した金でもない

見栄だの意地だのを張るだけのものがないのだけれど、
しかしお金に関しては、ややそういったものにこだわる質だと思わないでもない。

月曜からの実習のため、シャツとパンプスを買いに行った。
まずはシャツを買おうと思い、しかし貧しいので、ユニクロに直行した。
店のチョイスからは、見栄など微塵も感じないが、問題はお会計だ。

ユニクロにありがちな、2枚で割引になるようなシャツを買うつもりが、
どうも片方を対象外のものにしてしまったらしく、
合計金額が思ったよりも高くなってしまった。
とは言え、まだお金を払ったわけではないのだから、
ちょっと恥ずかしそうに頭を下げて、商品を取り替えてくれば何の問題もない。

が、しかし、なぜか私はそうしなかった。
なぜかって、まぁ要するに、2000円程度のために、
わざわざ打ってもらった金額を取り消すというのに気が引けたのである。
いや、違う。
この人は2000円程度のために、わざわざ打った金額を取り消させるのか、
と思われ、嫌な顔をされることに気が引けたのである。

我ながら情けなく思いながら、ユニクロを後にし、
パンプスを物色するため、靴屋に行った。
運よく手頃なパンプスが見つかり、
手頃な点では見栄など微塵も感じないが、やはり問題はお会計だ。

もともとあまり現金を持っていなかった上、
ユニクロで2000円の誤差があったので、
お店に入ったそのときから、私はクレジットカードでの支払いを決めていた。
しかし、現金での支払いならば、20%割引になると言う。
現金を持ち合わせていないとは言え、ATMは目と鼻の先にある。
ちょっと恥ずかしそうに頭を下げて、取り置いてもらえば何の問題もない。

が、しかし、なぜか私はそうしなかった。
なぜかって、まぁ要するに、たかだか1400円程度のために、
わざわざお金を下ろしに行くのに気が引けたのである。
いや、違う。
この人は1400円程度のために、わざわざお金を下ろしに行くのか、
というか、この程度の金額もお財布に入っていないのか、
と思われ、嫌な顔をされることに気が引けたのである。

我ながら情けなく思いながら、靴屋を後にし、バイトに行った。
休憩に入ると、珍しく留守電が入っており、
何かと思えば、別のバイト先の後輩からの誘い、というか泣きつきだった。
わざわざ私の地元に来てまで、どうにか飲みたいという彼女と、
バイトの後に会う約束をする。

彼女の地元の駅から、私の地元の駅までは、たっぷり1時間強かかる。
そこまでしてどうしたのか、と大体の予想は立っていたが、
案の定、彼女は傷心で、
話したりいじけたり誉めたり泣いたり抱きついたり謝ったり怒ったりしていた。

私は彼女の話を聞きながら、最近読んだばかりの、
いくえみ綾の『カズン』3巻、
シロと別れた金井さんが、シロの前ではなく、茄子川さんのところで、
ひとりで飲んで酔って吐いて泣く、というところを思い出していた。

持つべき、かどうかわからないが、
意地というものは、金銭の面ではなく、こういう面に持つものなのだ。
しかしそういう金井さんに苛立つシロが、男性が、
情けなくもあり、愛おしくもあり、やはりそこに齟齬があることは否めない。

『カズン』は1巻を買ったとき、失敗したかと思ったが、
しかし3巻のこのシーンを読んだとき、買った価値があると思った。

と、そんなことも考えたけれど、ちゃんと彼女の話を聞いて、
その他、ちゃんと普通の話もして、食べて飲んで、
当然そこはお店なのだから、やはりお会計のときが来た。

目の前にいた彼女は、わざわざ1時間以上もかけてここにいるのであり、
若い身空で、よりいっそう頼りない人間にすらすがりたくなるような、
きっとどうしようもないほどの気持ちを味わっているのである。
まぁ、ここは私が払ってやろう、と思い、
彼女が席を立った間に、こそこそと、
またしても信用に裏打ちされているはずのカードに頼ったのだった。

とは言え、この件に関しては特に見栄とかそういったものではな